back  |  next   
 (した)わしい小さな背中。
「柘植サン」
 少し、小さな声になってしまった。
 弱気な、声になってしまった。
 ずっと会っていなかったのだ。八代は逃げて、今日まで逃げ続けていた。
「はい」と返事をしながら弘がふり向く。彼女は誰に名前を呼ばれても、必ず「はい」と返事をする。
 八代に気づいた寿生がからっと破顔した。
「久我先輩。おかぇ――、っじゃなくて、こんにちは」
「うん、田崎(たざき)氏久しぶり。誘引(ゆういん)覚えた?」
 発した声が震えていないことに安堵する。
 なんの事情も知らない寿生は明るい。尻尾を振る柴犬の顔で頷く。
「なんとか。でもまだ実際にやったわけじゃないので、冬が来るのどきどきします」
 誘引は一月にやるのだ。剪定(せんてい)もしなければならない。
「折らないでよ」
 寿生がぶんぶん首を横に振った。
「やめてください言わないでください緊張します。やらかしそうなのでやめてください」
「キミほんといつ会っても元気だよね。柘植サンに用があるんだけど、田崎氏ちょっとここ任せていい?」
「はい。大丈夫ですよ。とりあえず今は不安になるような作業ないので」
 弘に視線を移す。
 拒まれたらどうしよう。
 ――どうもしない。
 追いかけるだけだ。
「柘植サン。話があるんだけど、いい? すぐだから」
 ――俺は柘植サンにやさしくしたい。
 鷹羽はやさしさは努力だと言った。やさしくしたいなら、やさしくできると。
 それなら、八代は弘にやさしくできる。
 慕わしいのだ。
 たまらなく愛おしくて、恋しい。
 はじめて得た愛おしいという感情は、八代が思っていたよりもずっと激しいものだった。苦しくなるほどだ。声を上げて泣きたくなる。
 怖いものから守りたくて、泣かないで笑っていてほしくて、――でも、自分が泣いてしまいそうになる。
 とても大切で壊したくないから、自分にできるすべてのものでやさしく抱きしめたい。
 弘は甘く微笑んだ。
 膝から崩れ落ちそうになる。
「はい」
 田崎くん、少しの間よろしくね、と言って弘は帽子を脱いだ。
 一ヶ月以上まともに会っていなかったのが嘘のように、信じられないほどの自然さで、彼女は八代の傍までやってきた。
「久我先輩、どのようなご用件ですか?」
 この淡い唇で嘘をついたのか。
 笑顔で嘘をついたのか。
「誘いにきただけ」
「どのようなお誘いですか?」
「一緒に寝たくて」
 鳶色の瞳が静かに驚いた。
「ずっとひとりにさせてごめん。一息ついたから、……柘植サンがいやじゃなかったら、一緒に寝よ」
 帽子を持つ手が震えている。
 弘は大きな目に涙を溜めて唇を噛んだ。
「口緩めて。……傷がつくよ」
 華奢(きゃしゃ)な顎をそっと持ち上げて、驚かせてしまわないように――怖がらせてしまわないように、祈るような気持ちで、弘の唇を親指で辿った。
 弘はふっと唇の力を抜いた。やわい微笑が浮かぶ。
「一緒におやすみします」
 白い(いし)(だたみ)に涙が落ちた。
 自分のものだったのか、弘のものだったのか、八代にはわからなかった。
 back  |  next



 index