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ツルゲーネフのワンセンテンス 後編






 神の実在が証明できれば、神はいなくなる。
                                ――ミヒャエル・エンデ『神の実在』



 もうどれくらい八代(やしろ)に会っていないだろう。
 カレンダーを数えてみる。
 一日、二日、三日、四日、……一週間、二週間、……。
 (ひろむ)は勉強机に置いてある卓上カレンダーを伏せた。
 そのようにあることが当然なくらい、八代と一緒に寝るのは習慣になっていた。毎日のことでなくても、もう習慣といっていいほど、弘の生活にあって不自然ではないものになっていたのだ。
 自分の部屋で寝ていたとき。
 ベッドが狭く、ぎゅうぎゅうになって寝た。八代は長身だから、きっと狭かっただろう。小柄な弘が(みやび)と寝てさえ狭いベッドなのだから、押し込められた彼が狭くなかったはずがない。
 八代はいつも気遣ってくれたけれど、実のところ弘もベッドから落ちないようにするのには少しこつが必要だった。
 それでも苦には思わなかった。
 彼も文句を言ったことがない。
 ふたりで並んで、無理矢理並べた枕に頭を乗せて寝た。寝ぼけ(まなこ)ながらに目が合うと、八代は穏やかな微笑で弘の眠りを包んでくれた。
 弘は安心して眠った。
 眠れない、という単語は、弘にとって知識でしかなかった。
 むろん眠れないことはある。でもそれは、
 ――明日の遠足が楽しみで仕方がない。運動会で疲れすぎて、身体の興奮が収まってくれない。
 ただなんとなく、今日は寝つけない。
 そんな理由ばかりだ。多くのひとが経験するだろうなんでもない一夜の出来事だった。
 だから、弘は八代の眠りの恐怖や焦燥(しょうそう)、苦労を想像するしかなかった。
 つらいだろう。
 苦しいだろう。
 哀しくもなるかもしれない。
 ひとりぼっちの気がして、寒いかもしれない。
 そう思ったから、弘は彼を抱きしめることにした。抱きしめてあげたかったのではない。抱きしめたかった。
 彼が、自分自身の左目に(おびや)かされていることを知っている。
 見たことはないけれど、恐れているひとと同じ色をしているらしい。
 それが眠りに直接関係しているのかはわからなかった。彼を本当に、真実恐怖に陥れているものの正体は、大きな存在であることはわかるのに、かたちは(ぼう)としていて(つか)むことができない。
 弘は無力だった。
 わからないものだらけで、掴みきれないものしかなく、想像するしかなくて、その想像すら見当違いかもしれない。
 だけど、――だから。
 弘は八代にキスをした。
 怖がらなくていいのだ、眠りは幸福なもので、迎える朝はいつも気持ちのいいものなのだと。
 わからせてあげたいという傲慢(ごうまん)を持てなかった弘は、ただ願ったのだった。キスで伝えられたらいいと思った。言葉を見つけられなかったから、それしかできることがなかったともいえる。
 八月は、一応問題はなかった。
 なかったといっていいと思う。来るには来たのだ。やたらと量が多くなかなか終わらなかったけれど、とりあえず日にちはいつもどおりだった。精神的にもひどく落ち込むということはなく、苛々(いらいら)するようなこともなかった。
 カレンダーに手をかけて、起こそうとして、――やめた。
 代わりに、机の端に立てて置いてある手帳を引き出す。ページをめくった。
 もう一週間遅れている。



「ついてるわよ」
 隣で弁当を食べている綾野(あやの)が、自身の(あご)を人差し指でとんとんと叩いた。同じ位置を触ってみる。
 米粒がついていた。
「ありがとう」
 (つま)んでぱくりと口に入れる。
 温室といっても、成花(せいか)成第一高等学校の全面硝子(がらす)張りの温室は、農家のハウスほどの完璧さはない。箱で覆って守っているといった程度だ。あたたかいが、暑くはなかった。
 空調機が低く(うな)っている。
 やることがたくさんあった。
 十月の半ばに品評会がある。花まつりと呼ばれている、文化会館で開催されるものだ。高校生の部に出る。
 今年は何を出そう。
「弘君さあ」
 ほうれん草のソテーを飲み込んだ伊織(いおり)が、どこか力の抜けた――そのくせ緊張しているような調子で()らした。呼ばれたようには感じられなかったが、弘は「はい」と返事をする。
「最近、やっしー先輩と一緒に寝てる?」
 きっとみんな気づくだろう。
 即答できなかったのだから当然だ。イエス、ノーで答えられる質問をしたとき、弘は即答する。はい、いいえときっぱり答える。わからなかったり迷ったりしたときは、考えさせてほしいと言う。
 何も言えなかった。
 唇も舌も硬直してしまったのだ。
 だから、嘘だとばれる。
 弘は綾野に、伊織に、次子(つぎこ)に、鷹羽(たかは)に丁寧な笑顔を見せた。
 そして、
「お会いしてないけど、電話はしてるよ」
 嘘をついた。
「そう。――なら、別に心配することないんだよね? やっしー先輩全然来ないから、喧嘩(けんか)でもしてるのかと思っちゃったの」
 喧嘩ならどんなにいいだろう。
「先輩は部活をご引退なさったから、部活の時間でも温室にはあんまり」
「昼くらいいいんじゃないの」
 ミートボールを(はし)で挟んだ綾野が遮った。弘は眉尻を下げる。
「けじめ――なんだと思う」
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