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「あのひとにそんなもんがあったのか」
「僕も驚いた」
「次ちゃん、鷹羽くん、ひどいよ」
 ふふっと笑う。
 八代が温室に来なくなった理由に、引退したから、というのはあるだろう。
 でも、突然まったく顔を出さなくなった理由にはなっていない。
 彼には弘に会う理由がある。「一緒に寝て」と誘う口実があって、今は向き合わなければいけない大切な話し合いがあった。
 ――一緒に寝て。
 一緒に寝よう、と誘われたことがないことに、今になって気づいた。
 時間が過ぎていく。
 八代と会えなかった時間がどんどん増えていく。
 自分から会いにいくのがいいのだろうか。弘は迷っていた。彼が明かしてくれたものは大変な内容だったから、
 ――ゆるさないで。
 大変な内容を話してもらったから迷っているのではない。「ゆるさないで」と視線ごと隠されてしまったから迷っている。
 あのとき、八代は怯えていた。
 弘と八代しかいなかった。ふたりきりで話していた。内容はふたりの将来を決定する一端を(にな)うものだった。だから、
 ――だから、彼を怯えさせたのは弘だ。
 ふたりの大切な問題だから、逃げている場合ではない。でも、いくら弘に話し合う姿勢があろうが、彼に話し合うつもりがないのであれば、席が設けられるはずもなかった。
 向き合うためには双方の理解と勇気と誠実さがいる。
 八代の家に押しかけるのがいいのだろうか。無理矢理話すのか。怯えている彼の顔を捕まえて、逃げるなと(おど)すのか。
 それで得られるものがあるとは思えない。
「弘」
「はい」
「ついてるわよ」
 ありがとうと言って、弘は今度は口の(はし)についた米粒を取った。
 時間がどんどん過ぎていく。
 もう、二週間になる。



 温室の観音開きの扉を閉める。鍵をかけた。
柘植(つげ)先輩、お疲れ様でした」
「うん、お疲れ様です。……田崎(たざき)くん、朝、もう少しゆっくり来ても大丈夫だよ?」
 寿生(としき)は朝一番でやってくるのだ。弘もけして遅くはないし、文句なく早い時間の登校なのだが、彼はそれを上回っている。
「好きなので目が覚めちゃうんですよ。あっ、もしかして先輩、しんどいですか?」
 笑顔だったのが、すぐに心配顔になる。しかもちょっと(あせ)ったふうだ。(せわ)しなく動く表情が元気なわんこに見えて、弘は笑った。
「わたしも好きだから大丈夫。これまでもずっとそうだったから、身体が慣れてるの。橋爪(はしづめ)先生は少しお疲れかもしれない」
 寝ぼけて気合いの入っていないだらりとした様子の顧問を思い出したのか、寿生がうぐっと(のど)を鳴らして笑う。笑ってはいけないかと我慢しようとしたのだろう。で、失敗したのだ。
 喉が痛かったのか、寿生はげほっと咳き込んだ。
「大丈夫?」
「っだ、大丈夫です。柘植先輩時々ツボついてくるから、我慢が間に合いませんよ」
「そう?」
 満面の笑みで一礼して去っていく寿生の後ろ姿を見送ってから、弘は職員室に鍵を返しにいった。鍵の使用記録にチェックをつける。
 外に出たら、伊織と綾野が立っていた。
「どうしたの?」
 今日、何かあっただろうか。
「弘君、顔貸して」
 無表情に近い伊織の目に容赦はなかった。
 弘は微笑んで、「はい」と(うなず)いた。



 伊織の家は古い平屋の日本家屋だ。裏手に回ると、公道に面している『髪結(かみゆい)宇佐美(うさみ)』がある。むろん今は閉めきっていた。
 伊織は『髪結宇佐美』をリニューアルして暖簾(のれん)をかけたいのだという。それが目標で、絶対に叶えると。彼女には迷いなど一切ないのだ。
「おじーちゃんは今日は運動会なの」
 伊織の祖父は定期的に年配者向けの運動教室に通っている。ものすごくきびきび動くらしい。筋肉がだらけておらず、食生活も伊織がしっかり管理しているから健康なのだ。
 付け加えると、見目(みめ)(うるわ)しい彼はなかなかもてているようだった。しかもお洒落(しゃれ)と来ている。年齢を言い訳にして身嗜(みだしな)みに(すき)を見せるようなことのない人物は、いくつになっても魅力的だ。
「あたし特製ローカロリーチョコレートムースだよん。甘さ(ひか)えめだから綾野もたぶんいけるよ。無理なら弘君が食べるから気にしないでね」
「自分が口をつけたものくらい最後まで食べるわ」
 炬燵(こたつ)テーブルにチョコレートムースと紅茶が並んだ。チョコレートムースの天辺には、宝石みたいなラズベリーがひとつ乗っている。
「おいしそう。いただきます、伊織ちゃん」
「いただきます」
「どーぞ。あたしがつくったんだからおいしいに決まってるよ。紅茶のお砂糖はこっち。各自好きなだけ入れてね」
 白いシュガーポットが机の真ん中に押し出された。弘はありがたく頂戴(ちょうだい)してひとつ入れたが、綾野はシュガーポットに一瞥(いちべつ)もくれない。弘は彼女が紅茶に砂糖を入れるところを見たことがなかった。
 チョコレートムースにスプーンを入れる。スプーンはふわりと包まれた。口の中に入れるとすぐに溶けてしまうほど軽い。やわらかい甘さで、ローカロリーだからといって味が薄いわけではなく、しっかりとチョコレートの風味がある。
「おいしーい」
 嬉しくて(ほほ)がゆるゆるになってしまう。
「弘君ねえ、幸せそうなとこアレなんだけどさあ」
 伊織は苺模様のティーカップを傾けた。綾野は黙々と食べている。表情は変わっていないように見えるが、おいしいと感じてはいる。何故わかるのか、どこを見ればわかるのかと問われたら困るのだけれど、とにかくなんとなくわかる。
「なんで嘘ついたの?」
 スプーンが落ちた。
「あ、ごめ……」
「はいティッシュ。はい新しいスプーン」
 ボックスティッシュとスプーンを渡された。伊織に礼を言って、落としたスプーンを(たた)んだティッシュの上に寝かせて、新しいスプーンを持つ。
 身体が動かなかった。
「嘘、なんて」
 ごめんね。
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