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 嘘なの。
 本当は、
 ――本当は、一言だってお話してない。
 一ヶ月以上も。
「あのね弘君、嘘って上手くつかなきゃ意味ないの。墓の下まで持ってかなきゃだめなの。あんな下手な嘘つくくらいなら八つ当たりの方がまし。理不尽でも正直だからね」
「八つ当たり……」
 八つ当たりってどうやるのだろうか。
「すぐに謝れないくらい隠しておきたいことなの? こんなこと言われてもまだ隠したい? あたし、やさしくないから気づかなかったふりなんかしないよ」
 伊織が(まつげ)の長い猫目を(すが)めた。
 綾野が溜息(ためいき)をつく。
 チョコレートムースの(うつわ)(から)になっていた。
「弘。言いたくないなら言わなくていい。でも、言わないなら謝らないで。そうしたら、あたしは気づかなかったことにする」
 謝ったら認めたことになる。
 ――謝りたい。
 こんなに苦しい嘘をついたのははじめてだ。
「ねえ、弘君」
 向かいの伊織が机すれすれまで上体を(かが)め、瞳を(のぞ)き込んでくる。
「なんで嘘ついたのとは()いたけど、どうしてそんなことしたの、なんでそんなひどいことするの、なんて責めないよ。誰も責めない。心配なだけなの。弘君が笑ってド下手な嘘つくなんて、」
 そうだ。
 弘は笑って嘘をついた。
「傷ついてるからなんじゃないの?」
 八代と会わなかった時間がどんどん増えていく。
 会いたいのに、話し合いたいのに、ままならないでいる。
「……あの、」
 たっぷり逡巡(しゅんじゅん)したが、伊織も綾野も「はやく」と言わない。だから、せめてこれだけは、と思う。
 嘘を認めたら、八代が弘から逃げていることが明らかになってしまう。彼の無言に傷ついているのだとばれてしまう。
 弘が迷っていて、どうしたら前進できるのかを掴めずに苦しんでいることを知られてしまう。弘だって怖いのだ。
 八代が砕けてしまいそうで、ひどく怖い。
 もうみなわかっているのだろうけれど、弘が実際に言うのと、みなが自分で感じ取って気づくのではまったく違う。
 綾野は隣に座って小さくなっている弘を見つめた。
 嘘をつかれたことはショックといえばショックだったのだけれど、何より、彼女が笑顔で嘘をつくほど傷ついているのが哀しかった。
「あのね、」
 なかなか進まない。
 ()れったいとは思わなかった。
 普段、弘は言いかけたことを中途半端で終わらせるようなことがほぼない。綾野の感覚としては、まったくないといって過言ではなかった。だから、話しはじめた以上は最後まで語ってくれるだろう。けれど、今の弘の様子は異様に映る。
 心臓を握り(つぶ)されるような哀しみと焦燥が、綾野の喉を締めつけてくる。
「……生理が、来ないの」
 ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな声で、弘が言った。
 綾野は一瞬言葉を失う。大変なことが起こったのではと、まるで脊髄(せきずい)反射のような速度で思ってしまった。
 弘は八代が住むマンションに泊まることがあるのだ。ここのところはなかっただろう。最後がいつなのかは知らない。でも、あるのだ。あったのだ。
 柘植家では行われていないことが行われていても、誰にもわからない。
「弘、それって……」
 恐ろしい仮定だ。
 当たっていてほしくない予感だった。
 ――妊娠じゃないよね?
 その一言が音にならない。発声できなかった。綾野の両肩が強張(こわば)る。
 (うつむ)いている弘の眉間が蒼白(あおじろ)い。軽く()まれているらしい唇が震えていた。
 もしもこの懸念(けねん)が当たっているとしたら、どうしよう。綾野には何もできない。精々、雅に相談しろと言うくらいのものだ。そして、綾野が(すす)めるまでもなく、弘なら真っ先に雅に相談していると思う。
 蒼褪(あおざ)めて憔悴(しょうすい)している彼女の姿からは、母にわずかでも相談して、さらにごくわずかでも安堵(あんど)を得られたという色がまったく見られなかった。
「こんなこと、はじめてなの。全然……二週間以上も遅れるなんて」
「……ねえ、弘。それって」
 弘の言葉の続きが怖くて(さえぎ)った。どうあっても聞くことになるのはわかっている。けれども、一秒でもいいから先に延ばしたい。心の準備をさせてほしい。
 弘は俯いていた(おもて)を上げて、綾野の顔を覗き込んできた。
「綾ちゃん? 具合が悪い? 顔色がよくないよ。伊織ちゃんにお願いして休ませてもらう?」
 具合が悪いのは気のせいだし、もしもそう見えてるんならあんたのせいよ。
 その程度の台詞(せりふ)も出てこなかった。胸もとが焼けつく。八代に対する嫉妬はなく、ひたすら弘が心配だった。
「弘君、妊娠の心当たりは?」
 伊織がずけずけと無神経なまでに遠慮の欠片(かけら)もなく尋ねた。
「伊織!」
 あまりにも単刀直入な(たず)ね方だ。綾野は叱責(しっせき)するような声で伊織の名を呼んだが、彼女は少しも(ひる)まなかった。
「綾野、なんでそんな顔するの? 大事なことでしょ。どうせ訊くならはっきり一回で訊いた方がいいに決まってる」
「それは……そうだけど、こんなこと」
「こんなことだから一回でずばっと訊くの。のんびりなんかしてられない」
 のんびりするつもりは綾野にもなかったが、まごつく様子は伊織からすれば苛立(いらだ)つものだったのだろう。花の(かんばせ)に怒りの(かげ)がちらついている。
「で? 弘君。心当たりは?」
 弘に向き直った伊織が、改めて尋ねた。弘はぽかんとしている。
「ありません」
 すぱっとした返答に、綾野も伊織も、ふたりして胸を()で下ろした。
「どうして? その発想、どこから来たの?」
 弘が大きな瞳をぱちぱちさせる。
「ああ……」
 本気でわかっていないらしい弘の反応を見て、伊織は察したらしい。大きく溜息をついた。
「すっごい清い仲だってことが今のでわかった。発想も出てこないくらい心当たりがないってことね」
 伊織の台詞で、綾野もやっと芯から安心できた。伊織の言うとおりなのだろう。弘は八代と一緒に寝ているが、本当に寝ているだけなのだ。ただ並んで、ぬくもって眠っているだけで、性的なこととは無関係に違いなかった。
 むろん、八代がどのように思っているかはわからない。衝動を(こら)えているのかもしれない。それに弘が気づいていない可能性も、大いにある。けれど、眼前の間抜け面を見る限り、彼が弘を(おもんぱか)ってくれていることは明白だった。
「生理が遅れてるのが怖いの?」
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