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伊織が弘の隣に座る。やさしい声に問いかけられて、弘はこくんと頷いた。
「こわい。これまでこんなことなかったから……いつもきちんと予定日に来てたの」 「記録つけてるの?」 やけに明言するものだから、 「うん。つけてる」 伊織の猫目が半眼になった。 「あーまーそれで二週間、いや二週間以上か。相当だもんね、不安になるよ。たまにすごいずれるときがあったとか前例があればともかく、今回がはじめてじゃねえ。日数も日数だし」 「大丈夫だよ、弘君。生理なんて、自分でもびっくりするくらい予定日からずれちゃうことなんて珍しくないんだから。むしろずっと規則的な方が珍しいんだからね?」 「そうなの?」 「うん。心がちょっと不安になったり、怒ったりするだけでどうにかなっちゃうものなんだよ。弘君、女の子だもん。女の子はしんどいのは身体に出やすいんだよ」 伊織に抱きしめられ、まるで子どもをあやすようにゆらゆらされて、弘は目を閉じた。 「おかしなことって思われるかもしれないけど、――いきなりだからお話が続いてないようにも感じると思うんだけど、訊いてもいい?」 「どんと来い」 「訊いて」 ――おれをゆるさないで。 「わたし、神様に見える?」 伊織も綾野も、すぐには返答できなかった。 断りを入れられたとはいえ、会話の前後を一切無視した質問に戸惑ったわけでも、困惑したからでもない。 見える、と思ってしまったから、 「……見えないよ」 華やかに整っている西洋人形のように 「ただの女の子にしか見えない。――弘君は、ありふれてる」 温室の扉の前に、寿生が待機していた。弘は小走りになる。 「ごめんね、待たせちゃって」 「いいんですよ、俺が早く来ちゃったってだけです」 鍵を開けて、観音開きの扉から、ふたりは順番に中に入った。 「もうすぐ花まつりですね。どの子出します?」 どれ、ではなく、どの子と言ったところに彼の愛情が表れている。弘の心はぬくもった。 「まだ決めてないの。田崎くんは希望がある? この子こそ! っていうご 白いレースのりぼんが巻かれた 「贔屓っていうとほかの子にやきもち焼かれそうですよ。 弘はふふっと笑った。 「ハートの女王様みたいだね」 「ステファニー・グッテンベルクとかどうですか。アイスバーグもきれいに咲いてくれそうですけど、一回出たでしょう」 「この子はお姫様」 「やっぱり女王様っていったら赤ですよね。あと黄色」 「黄色も?」 黄色のドレスの女王様を想像してみる。きれいだけれど、赤い女王様ほどのインパクトはない。 「黄色の薔薇って、花言葉、『嫉妬』でしょう」 「『友情』もあるよ」 「それはそうなんですけど。『愛情の薄らぎ』ってあるじゃありませんか。だから、俺の中では惚れっぽくて嫉妬深くて飽きっぽい女王様なんです」 で、俺は下僕です、とあっけらかんと笑って言うものだから、弘はころころ笑ってしまった。 去年まで、この遣り取りの相手は八代だった。彼も花言葉をよく知っていて、物語やお そういうときの八代は、彼自身が何かの植物のように静かに存在している。 淡く微笑するやさしい存在だ。 若葉や 「柘植サン」 もうすっかり耳に 少しばかり戸惑っている。 涙が浮きそうになって、弘はぎゅっと目を閉じた。気づかれないよう一度深呼吸をする。それから、「はい」と返事をしてふり向いた。 八代に気づいた寿生が、からっと破顔した。 「 「うん、田崎氏久しぶり。 寿生が立ち上がり、ジャージの膝から土を払い落す。 なんの事情も知らない彼は明るい。八代の親しげな言葉に、尻尾を振る柴犬の顔で頷く。 「なんとか。でもまだ実際にやったわけじゃないので、冬が来るのどきどきします」 誘引は一月にやるのだ。 「折らないでよ」 寿生がぶんぶん首を横に振った。 「やめてください言わないでください緊張します。やらかしそうなのでやめてください」 「キミほんといつ会っても元気だよね。柘植サンに用があるんだけど、田崎氏ちょっとここ任せていい?」 用事。 弘の胸の奥が強く波打った。 「はい。大丈夫ですよ。とりあえず今は不安になるような作業ないので」 「柘植サン。話があるんだけど、いい? すぐだから」 八代の顔はやさしかった。ずっと見ていなかった、穏やかな表情だった。 花に触れているときの、やわらかなやさしさだ。 花に触れるために整えられている彼の丁寧な指先が 弘は無意識に甘く微笑んだ。 |
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