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 伊織が弘の隣に座る。やさしい声に問いかけられて、弘はこくんと頷いた。
「こわい。これまでこんなことなかったから……いつもきちんと予定日に来てたの」
「記録つけてるの?」
 やけに明言するものだから、怪訝(けげん)に思って綾野は尋ねた。生理日の記録など一度もつけたことがない。
「うん。つけてる」
 伊織の猫目が半眼になった。
「あーまーそれで二週間、いや二週間以上か。相当だもんね、不安になるよ。たまにすごいずれるときがあったとか前例があればともかく、今回がはじめてじゃねえ。日数も日数だし」
 悪戯(いたずら)に唇を(とが)らせて言う。伊織は弘を横からぎゅっと抱きしめた。にこっと笑顔になる。
「大丈夫だよ、弘君。生理なんて、自分でもびっくりするくらい予定日からずれちゃうことなんて珍しくないんだから。むしろずっと規則的な方が珍しいんだからね?」
「そうなの?」
「うん。心がちょっと不安になったり、怒ったりするだけでどうにかなっちゃうものなんだよ。弘君、女の子だもん。女の子はしんどいのは身体に出やすいんだよ」
 伊織に抱きしめられ、まるで子どもをあやすようにゆらゆらされて、弘は目を閉じた。
「おかしなことって思われるかもしれないけど、――いきなりだからお話が続いてないようにも感じると思うんだけど、訊いてもいい?」
「どんと来い」
「訊いて」
 ――おれをゆるさないで。
「わたし、神様に見える?」
 伊織も綾野も、すぐには返答できなかった。
 断りを入れられたとはいえ、会話の前後を一切無視した質問に戸惑ったわけでも、困惑したからでもない。
 見える、と思ってしまったから、躊躇(ためら)いがふたりの唇を凍りつかせたのだ。
「……見えないよ」
 華やかに整っている西洋人形のように可憐(かれん)な顔にやさしい微笑を浮かべて、伊織はきれいに嘘をついた。
「ただの女の子にしか見えない。――弘君は、ありふれてる」



 温室の扉の前に、寿生が待機していた。弘は小走りになる。
「ごめんね、待たせちゃって」
「いいんですよ、俺が早く来ちゃったってだけです」
 鍵を開けて、観音開きの扉から、ふたりは順番に中に入った。
「もうすぐ花まつりですね。どの子出します?」
 どれ、ではなく、どの子と言ったところに彼の愛情が表れている。弘の心はぬくもった。
「まだ決めてないの。田崎くんは希望がある? この子こそ! っていうご贔屓(ひいき)さん」
 白いレースのりぼんが巻かれた麦藁(むぎわら)帽子をかぶる。寿生が冗談っぽく唇を尖らせた。ぶるぶるっと首を(すく)めて震える真似をする。
「贔屓っていうとほかの子にやきもち焼かれそうですよ。薔薇(ばら)って女王様だからやきもち焼きなイメージがあるんです」
 弘はふふっと笑った。
「ハートの女王様みたいだね」
 我儘(わがまま)で気取り屋で怒りっぽくて、いつもきれいでいたいし、みんなにきれいだと思われていたい女王様。ハートの女王様は小さな女の子みたいだ。
「ステファニー・グッテンベルクとかどうですか。アイスバーグもきれいに咲いてくれそうですけど、一回出たでしょう」
 (ひざ)をついて示される。弘はノートを抱いた格好で、少し前屈みになった。中心が淡いピンク色の、丸っこい薔薇だ。
「この子はお姫様」
「やっぱり女王様っていったら赤ですよね。あと黄色」
「黄色も?」
 黄色のドレスの女王様を想像してみる。きれいだけれど、赤い女王様ほどのインパクトはない。
「黄色の薔薇って、花言葉、『嫉妬』でしょう」
「『友情』もあるよ」
「それはそうなんですけど。『愛情の薄らぎ』ってあるじゃありませんか。だから、俺の中では惚れっぽくて嫉妬深くて飽きっぽい女王様なんです」
 で、俺は下僕です、とあっけらかんと笑って言うものだから、弘はころころ笑ってしまった。
 去年まで、この遣り取りの相手は八代だった。彼も花言葉をよく知っていて、物語やお(まじな)いの(たぐい)も知っている。植物の世話をしながら、弘は花や木が持つ物語に親しんだ。
 そういうときの八代は、彼自身が何かの植物のように静かに存在している。
 淡く微笑するやさしい存在だ。
 若葉や(つぼみ)、花びらに触れるためだけに、そのたったひとつのことだけのためにいつも整えられている、きれいな手。
「柘植サン」
 もうすっかり耳に馴染(なじ)んだ声に呼ばれた。
 少しばかり戸惑っている。
 涙が浮きそうになって、弘はぎゅっと目を閉じた。気づかれないよう一度深呼吸をする。それから、「はい」と返事をしてふり向いた。
 八代に気づいた寿生が、からっと破顔した。
久我(くが)先輩。おかぇ――、っじゃなくて、こんにちは」
「うん、田崎氏久しぶり。誘引(ゆういん)覚えた?」
 寿生が立ち上がり、ジャージの膝から土を払い落す。
 なんの事情も知らない彼は明るい。八代の親しげな言葉に、尻尾を振る柴犬の顔で頷く。
「なんとか。でもまだ実際にやったわけじゃないので、冬が来るのどきどきします」
 誘引は一月にやるのだ。剪定(せんてい)もしなければならない。
「折らないでよ」
 寿生がぶんぶん首を横に振った。
「やめてください言わないでください緊張します。やらかしそうなのでやめてください」
「キミほんといつ会っても元気だよね。柘植サンに用があるんだけど、田崎氏ちょっとここ任せていい?」
 用事。
 弘の胸の奥が強く波打った。
「はい。大丈夫ですよ。とりあえず今は不安になるような作業ないので」
「柘植サン。話があるんだけど、いい? すぐだから」
 八代の顔はやさしかった。ずっと見ていなかった、穏やかな表情だった。
 花に触れているときの、やわらかなやさしさだ。
 花に触れるために整えられている彼の丁寧な指先が(した)わしくて、懐かしくて、恋しくて。
 弘は無意識に甘く微笑んだ。
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