back  |  next   
「はい」
 田崎くん、少しの間よろしくね、と言って弘は帽子を脱いだ。
 一ヶ月以上まともに会っていなかったのが嘘のように、信じられないほどの自然さで、八代はそこに立っていた。
「久我先輩、どのようなご用件ですか?」
「誘いにきただけ」
 そんなやさしい顔をしないでほしい。泣いてしまいそうになる。
「どのようなお誘いですか?」
「一緒に寝たくて」
 弘は静かに驚いた。
「ずっとひとりにさせてごめん。一息ついたから、……柘植サンがいやじゃなかったら、一緒に寝よ」
 帽子を持つ手が震える。
 一緒に寝て、ではなく、一緒に寝よう。
 ――お願いじゃなくて、ほんとうに『お誘い』。
 弘は大きな目に涙を溜めて唇を噛んだ。
「口緩めて。……傷がつくよ」
 顎をそっと持ち上げられる。八代の親指に唇を辿(たど)られた。遠慮がちな、触れるか否かの距離の触れ方だった。
 弘はふっと唇の力を抜いた。自然にやわい微笑が浮かぶ。
「一緒におやすみします」
 涙が落ちた気がする。気のせいかもしれない。涙が頬を転がった感覚はなかった。
 でも、ぽたりと一粒、落ちた気がした。



 電話をしたら雅が出た。八代は、安堵に満ち(あふ)れた声音で歓迎された。ふたりは一緒に柘植家に帰った。
 弘は着替え一式を準備して、予習復習のための辞書やノートを(そろ)えてバッグに入れる。
「八代君、受験勉強、どう? 調子いい?」
 雅は(ひとえ)の羽織を着ていた。これももうすぐ(あわせ)になる。
「はい。……問題を解くのが楽しいと思ったのは生まれてはじめてです。誰かさんの影響かもしれません」
 ちらりと見られて、弘は少し頬を染めた。
「あっはっは、うん、いいんじゃない? いいと思うよ。楽しいことするのは楽しいもんね。せっかく来てくれたから、おみやげにおかずの一品でも持たせてあげたいんだけど、何もないのよ。ごめんね」
「気になさらないでください。――眠れるだけでじゅうぶんなんです」
 雅は大切な子どもを愛おしむように微笑んだ。
「きみはもっと欲張っていいよ。おいしいもの食べて、ゆっくり休んで。明日明後日と、どうする? 八代君の家から登校してくれてもかまわないけど、ひーちゃん、日曜日に帰ってくる?」
「日曜日のお昼に帰る。何かあったら電話するね」
「わかりました。ふたりとも、寒くならないように寝てね」
 ふたり揃って「はい」と返事をした。「タイミング同じ、仲良しだね」と笑われる。久しぶりに八代と一緒に寝られるのだと安心していた弘は母親からの不意打ちに照れてしまったけれど、彼はといえば穏やかに微笑しているばかりだった。
「晩ごはんは何にいたしましょうか」
 バスを待つ間、弘は頭の中で色々とメニューを検索した。夜になると涼しくなってきている。かといって、鍋ものに手を出すにはまだまだ早い。
 揚げ出し豆腐はどうだろう。ハンバーグも捨て難い。さんまが安かったら、さんまの南蛮漬けもいいかもしれない。唐揚げとか。(しゃけ)の香草焼きとか。夏野菜の季節は終わってしまったけれど、栗の季節にはまだ早いし、
 ――さつまいもごはん。
 まだちょっとフライング気味な気もするが、さつまいもはあるし。
 ――安いといいなあ。あとは、お味噌汁……具はどうしよう。お豆腐とわかめ。油揚げ? お()もいいかなあ。ほうれん草のお浸しをつくって、それから
「柘植サン」
「えっ? あ、はい。なんでしょう」
「考えてくれてるところありがたいんだけど、俺がつくるよ」
「……よろしいのですか?」
 朝食と弁当を八代がつくってくれるから、夕食は弘がつくるのだ。気がついたら決まっていた。
「不安にさせたから、お詫びに」
「そ、そんな、それは」
「鮭とマカロニのグラタンつくって、卵焼きつくって、スープつくってサラダつくって、ブルスケッタつくって、あとデザートはアガー使ったオレンジゼリー」
「……楽しみです」
 デザートまで決定されている献立(こんだて)に逆らう気はない。
 乗客の多いバスが来る。
 バスのドアの、ぷしゅう、という勢いのいい音も、外を見たときに視界を額縁にする四角い窓も、赤いボタンも久しぶりだ。
 凸凹(でこぼこ)道に差しかかると、バスが揺れる。よろろっと傾いだ身体を、八代がやさしく支えてくれた。
 ありがとうございます、は、顔を見て言うことができなかった。



「お片付けをするので、お風呂は先輩がお先にどうぞ」
 いつも弘は先に風呂に追いやられる。だが、今日はそういうわけにはいかない。彼が料理したのだから、片付けるのは弘の仕事だ。
「今日は全部俺がやるって決めてるんだよね」
「……」
 じゃんけんぽん!
 八代は風呂場に消え、弘は皿を洗った。
 デザートまで食べさせてもらって、腹も胸もいっぱいだった。八代のキッチンが懐かしい。日数が経っているからというのが理由ではない。大切な場所だからそう感じるのだ。
 ――久我先輩、お夜食召し上がるのかなあ。
 夜遅くまで机に向かうのであれば、小腹が()くだろう。弘なら空く。ものすごく空く。風呂から上がってきたら訊いて、いるようなら何かつくろう。
 何がいいかなあと食器を片付けていたら、つう、と内腿(うちもも)を何かが伝った。
 身体が硬直する。
 生温かいものが、ゆるゆると下に向かっていく。そして、やっとスカートから覗いたそれがなんなのかはっきりしたとき、頭では理解していたにもかかわらず、弘は声のない悲鳴を上げた。
 どくん、と下腹が(うごめ)く。溢れた経血が一気に下着に広がり、布地に吸い取られなかったぶんが足を赤く汚して、床にまで落ちた。
「あ、あっ……」
 くちもとをてのひらで覆って、叫びそうになるのを堪えた。涙がふくれ上がる。
 (よど)みきった経血が、足に筋をつけて流れ落ちる。
 back  |  next



 index