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「柘植サン?」
「!」
 風呂から上がったらしい八代の声がして、弘は咄嗟(とっさ)に扉に駆け寄り、身体で押さえた。鍵などないから体重をかけることしかできない。
「来ないでください!」
 必死で絞り出した声は、既に泣いていた。
「なんでもありません、来ないでください!」
 馬鹿なことを言っていると、頭の片隅に残っている冷静な自分が(あき)れる。なんでもないのなら、こんなことは言わない。涙声で必死に訴えたりなどしない。
「そんなの信じてもらえると思ってるの?」
 八代が言っているのが正しい。でも、こんなところ、見せられない。見られたくない。
 遅れに遅れ、溜まりに溜まった血が、内腿に幾筋も流れている。床も血で汚れていた。
 がちり、と扉が動きそうになる。肩に力を込めた。八代が本気で力を出せば、弘が敵うはずもない。
 とにかく来ないでほしいのだとわかってもらいたかった。
「申し訳ありません。お願いですから、十五分……いえ、十分でかまいません。お願いですから、十分ください。お願いします」
 足が震える。手も震えていた。身体が冷たい。涙と頬だけが異様に熱かった。頭が痛い。
「お願いします!」
 ほとんど悲鳴だった。
「……わかった」
 扉一枚(へだ)てたむこうで、八代はどんな顔をしているのだろう。声は静かだけれど、胸の内まではわからない。
「一秒でも過ぎたらドア蹴破ってでも入るからね」
「はいっ」
 泣き声で返事をして、弘は扉を離れた。もしかしたら八代が入ってくるかもしれないなどとは考えなかった。
 身近に雑巾(ぞうきん)になりそうなものはない。床に落ちている血が、もう乾きはじめている。
 冷静になんてなれなかった。
 キッチンペーパーの存在すら頭に浮かばない。あとでどうなるかも考えが及ばず、弘は屈み込んでワンピースの裾で床を()きはじめた。きれいにならない。スカートが汚れていくだけだ。涙がぼたぼたと落ちる。嗚咽(おえつ)が漏れそうになるのを耐えながら、ひたすら手を動かした。
 弘の身体から落とされた血は(ぬぐ)い去られることなく、引きずられた跡を伸ばしていくばかりだ。拭いても拭いても、血の筋が凄惨(せいさん)傷痕(きずあと)を残すだけだった。
 どくん、とまた下腹が波打った。大量に出血したのだと、すぐわかる。新しい血が内腿を伝っていく。床に届いて広がる。ワンピースを赤く汚す。
 ふわりと身体が浮いた。眩暈(めまい)がする。
 血が止まらない。涙も止まらなかった。ものすごく哀しくて、ものすごく寂しい。
 生理なのだから血が出るのは当然だ。三週間近くも遅れたのだから、普段と異なるのも当然だろう。いつ来ても大丈夫なように、ナプキンを当てていなかったのが落ち度だともわかっている。
 どうしてその程度の気が回らなかったのだろう。安心できたと思ったのに、いつもと違う。何もかも違う気がする。自分のことなのに、身体の変化についていけない。生理が遅れたのもはじめてだったのだ。それだけでもひどく不安で、怖かった。
 けれども、こんなふうに再開してほしかったわけではない。
 考えていることがどんどん乱れていく。自分が何を考えているのか、わからなくなっていく。
 新しい血が、また大量に出た。床は全然きれいにならない。



「あのさ、知ってると思うけどあたしには暇なんてないの。今月のはたらきに時給アップがかかってるの。わかる? 仮にアップする額が一円でも、あるとないとじゃ雲泥(うんでい)の差なんだから。それに明日も早いのよ」
 機械越しに伊織の声を聞くのははじめてだった。取り合う気のなさそうな声音だが、八代はその程度のことに構ってはいられない。
「計算しなくてもわかる。でも助けて。鷹羽に頼れない」
「はァ?」
 と、いやそうな声がしたが、弘の名前を出した途端伊織は黙った。そして、
「ちょっと待ってて。買い物してから行くから、やっしー先輩料理できる?」
「まあ、人並み程度……は、できてると思う」
「お菓子つくれる?」
「うん、って言っていいのか……簡単なやつなら少しつくったことがある」
「おっけーわかったありがとう。待ってて」
「え、それだけ? ね、宇佐美サン、あと」
 無情な音をさせて電話が切れた。八代は訊きたいことが山とあるが、伊織はもう言うことがないらしい。しばらく時間が止まったように受話器を手にしたまま立っていたが、ひとつ息をつくと、やっと動き出した。とりあえず寝室に向かう。何もわかっていないのだから、伊織の指示に従うしかない。
 驚かせないよう静かなノックをして、こそりと顔を覗かせる。遮光カーテンを半分閉めたぼんやりと暗い部屋で、弘は蒼い顔をして眠っていた。
 あのあと、八代は十分待つという約束を破って部屋に入った。ごとっ、という鈍い音が聞こえたからだ。絶対に倒れたのだという確信があったから、扉を開けた。
 八代の予想どおり、弘は倒れていた。
 淡いブルーのストライプのシャツワンピースが、赤黒く染まっていた。スカートの裾から覗いているほっそりとした白い足に、筋になって流れている血の跡がある。床は、落下して付着した血液で汚れていた。ドライブラシが走ったような乱れ方だ。だから、彼女が床の血をスカートで無理矢理に拭ったのだと、すぐにわかった。
 弘を汚しているのが経血だということも、同時に。
 そうでなければ、あれほど取り乱すわけがない。知られたくないと思ったのだろう。見られたくないと思ったに違いない。来ないでくださいと言った泣き声に羞恥(しゅうち)はなく、あったのは恐怖だった。想定外のことだったのだ。
 抱き起こした弘は完全に気を失っていた。呼吸が正常なことには安堵したものの、それ以降をどうしたらいいものか、八代は迷った。事情が事情だ。正気に戻れば、弘は消えてしまいたくなるくらいの居た堪れなさを感じるに決まっている。それでも非常事態に変わりはないから、八代は結局弘を脱がせた。
 下着も脱がせて、汚れた足をぬるま湯で濡らしたタオルできれいに拭った。あたたかい布では血が固まってしまうが、冷たいタオルを当てる気にはなれなかったから、選ぶ先が必然的にぬるま湯になったのだ。
 新品の清潔なタオルを腰回りに巻いた。さらにその上からタオルをもう一枚と、フリースのブランケットを巻く。それ以上はさすがにできない。
 着せるものに困って、ほかに選択肢もなかったため、自分のシャツを着させた。言うまでもなく、小柄で華奢(きゃしゃ)な弘にはぶかぶかだ。これでは冷えると思ったから、全身丸ごと毛布で包み、ベッドに突っ込んで、毛布を重ねてかけた。
 シーツなんか、汚れたら洗えばいいだけだ。再起不能になったら古布に甘んじていただくしかないが、八代には、タオルやシーツ、毛布の行く末よりも、蒼白い顔で気絶している弘の方が問題だった。
 それから伊織に電話をかけた。床の掃除は、彼女が到着するまでに済ませればいい。掃除してからなど遅すぎる。
 積み上がった毛布に埋もれている弘は、ぴくりとも動かなかった。安心したらいいのかどうか、それすら判断がつかない。
 雑巾にした古布を水に浸けて絞り、床を拭った。血液は既に凝固している。簡単には拭いきれない。
 ぎゅっ、と最後の一拭きをしたとき、電話が鳴った。
「あと五分!」
「わかった。待ってる」
 名乗りもなかった電話は、やはりぶつんと切れた。伊織はどうやらかなり急いでくれているらしい。息が上がっていた。
 雑巾を片付け、手を洗う。もう一度寝室を覗いたが、弘が起きている気配はなかった。
 そしてきっかり五分後、チャイムの音がした。
「待たせてごめん。弘君、大丈夫?」
 玄関扉を開けた先に、薬局の不透明な緑色の袋を提げた伊織が息を荒げていた。いつもは(つや)やかに整っているブルネットの長い髪が、やや絡まっている。
「大丈夫かどうかは正直わからない。今寝てる」
 どういう状態が大丈夫なのかがわからない。伊織を迎え入れると、彼女は靴を脱ぎながら、
「寝てるの?」
 と訊いてきた。
「寝てる」
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