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「ならいいか」
いいのか。 「でも、気絶だよ」 思いきりぶっ倒れた。見てはいないが、すごい音がしたのだ。スカートで床を拭いていた以上膝はついていたわけだが、 が、伊織はふんと息をついて 「貧血でしょ。あと精神的なのと。やばいっちゃやばいけど、ほんとこればっかりはどうしようもないから。呼吸とかそういうの正常なんだよね? じゃなかったら救急車呼んでるだろうし」 「うん……まあ」 「なによはっきりしないなあ。でも、……だよねえ。しょうがないか。やっしー先輩女の子じゃないもんね。お邪魔します」 言いながら、伊織はずかずか部屋に入っていった。八代は彼女のあとを追う。女の子だったら、もう少し気の利いたことができたのだろうか。 「とりあえずこれ。買ってきた」 リビングでふり向いた伊織に、不透明の緑色の袋を押しつけられた。実際に身近に見たことはないが、中身は確認しなくてもわかる。 見たら申し訳ない気がしたから、見ないよう気をつけながら受け取った。薬局の袋越しの中身は、なんだかもさもさしている。 伊織はダイニングテーブルの椅子に 「さすがに牛乳くらいあるでしょ? 紅茶飲むんだし」 「ある」 「安心した。聞きそびれたからちょっと博打っぽくなっちゃった。卵と、あとインスタントだけどスープとココア。マシュマロも。卵と牛乳あれば大抵のことはなんとかなるからなんとかして。まあその牛乳忘れたんだけど、そこは気にしないでね。やっしー先輩のとこに何があるか知らないから、一応最低限のもの買ってきたよ」 袋から出したものをテーブルの上に並べながら、伊織が言った。 「弘君ココア好きだから、これ 「そうなの?」 「知らなかったの?」 面を上げた伊織が眉を 「……ごめん」 「あたしに謝ってどうするのよ。いやあたしもヤな感じだったけど。ごめんね。でもさ、好きなものくらい、ちょっとでいいから知っててあげてっていう、あたし得意のお 少し照れた様子で唇を尖らせ、伊織はそっぽを向いて顔を赤らめた。可憐な西洋人形に繊細な化粧を 「正論だと思うよ」 そういえば、八代は弘の好きなものを知らない。 嫌いなものなんてあるのかなあと思っているくらいだ。弘はなんでもおいしそうに食べるから、なんでも好きなんだなという意識しか持ったことがなかった。 でも、そうなのだ。特別に好きなものが、彼女にもあるはずなのだ。 その特別がどんなものなのか、それ以前に、特別があるかもしれないとさえ考えたことがなかった。 「宇佐美サン、バイトは?」 「終わったよ。ちょっと早く上がらせてもらったの。今何時だと思ってるの?」 「……ありがとう」 「やっしー先輩、素直になったよね」 伊織がエコバッグを畳んだ。きちんとしまって、鞄を肩にかける。 「宇佐美サンに言われたくないよ」 「あはは、ほんとだよねえ」 伊織は否定もせずに笑って、来たときとは逆方向に進みはじめた。八代はやはりあとを追う。 「お菓子経験まったくないわけじゃないんだよね。できるならでいいんだけど、プリンつくってあげて。カラメルは甘さ控えめで、あと、出すときは冷たくしないで」 「生クリームはいる?」 八代の家にストックしてある生クリームは、卵焼きのためだけにあるものなのだ。 「なくてもできる。検索して」 「わかった」 伊織が帰ったら、八代のプリンづくり初体験がはじまる。それとも、明日出来立ての方がいいのだろうか。プリンって長時間寝かせたりするのかなと思っていたら、 「……あのねえ」 玄関前で、くるりと伊織がふり返った。 「弘君、女の子なの」 「知ってるよ」 あれが男だったら驚く。とはいうものの、驚くだけで特に何が変わるわけでもない。八代は弘でさえあればそれだけでじゅうぶんなのだ。男だろうが女だろうが関係ない。 伊織が苛々と鞄を肩にかけ直した。突然腹立たしくなってきたらしい。磨かれたローファーを履きながらの声が、機嫌の悪い猫の毛みたいに逆立っている。 「そうじゃなくて! 普通の、ほんとにごくフッツーの女の子だって言ってんの! 確かに弘君は頑丈だよ。あたしもそう言ったよ。でも頑丈だっていうだけでただの女の子なの。いくら出来てても、――しんどいくらい出来てるけどただの女の子なの。わかる? この意味」 「わからない」 伊織は、ああんもう! と地団駄踏むようにして靴の 「宇佐美サン、帰るの?」 玄関での遣り取りなわけだが、正直帰ってほしくない八代の心情は完全に無視で、伊織は出ていく気満々だ。 「そりゃそうよ帰るよ。おじーちゃんに迎えにきてもらうから送ってくれなくていいからね。なにその不服そうな顔。それでね、ああもうほんとに、だから、」 「えっ」 いきなり伸びてきた手に、がっ、と 八代からすると伊織の身長は低い。勢いのまま前に突っ込んだら、彼女を押し倒すかたちで潰れてしまう。不純なものも 「さっきから繰り返してるとおり。弘君は! 女の子! なの!」 八代のシャツを思いきり握りしめて 「女の子の身体っていうのはね、繊細なの。精神状態によってかなり大きく変わっちゃうの。生理なんか最たる例よ。何ヶ月も来なかったり、一度に大量に出血したり、なっかなか終わらなかったり」 生々しい。八代は女の身体を知らないわけではないが、所詮それはベッドの中での話であって、こういう切実な女の子事情などというものは知らないし、考えたこともない。必要がなかったともいえる。 これだって聞いてしまっていいものなのか戸惑う部分がある。女の子の伊織に叱られているのだからいいのだろうが、なんというか、耳を 黙っている八代を見て、伊織は肩で息をついた。 「空元気っていうんじゃないよ。やっしー先輩が負担っていうわけでもないと思う。そんな単純なことじゃなくて――」 そこまで言って、少し微笑んだ。それを見て、八代も少し緊張が解ける。伊織のその表情は、もう幾度となく見てきた。心配性で情愛深い、やさしい色。こういうときの彼女は、一切の冗談や嘘偽りなく八代に助言をくれる。 「会ってなかったことがどうとかは言わないけど。前言ってたふたりの問題とかいうのもあるんだろうけど。それだってあるんだろうけどでもそうじゃなくて、やっしー先輩の状況、短期間でかなり変わったんでしょ? やっしー先輩が変わったってことは、弘君だって変わってるよね。他人のあたしにだってわかるんだから、当事者はすっごい疲れることも多かったんじゃない?」 「……うん」 疲れることはたくさんあった。揺れて戸惑い、大きな決心もした。 そして、逃げ続けてきた。 まだ解決していない問題は ――弘はどうだっただろう。いつだって変わらず笑顔で、ときに八代を 「……負担にならなかったわけがない」 「そんな世界の終わりみたいな顔しないでよ」 「してる?」 「してる。無表情に見えるけど、ちょっと違うね。だいぶやっしー先輩の表情見分けられるようになってきたの」 |
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