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 少し寂しげな繊細さは好きよ、とあっさり言って、伊織が笑う。
「ちょっと疲れちゃったんだよ。本人も知らないうちに溜め込んでた疲れがわっと出ちゃった感じ。女の子には」
「よくある?」
「しょっちゅうね」
 本当になんでもないことのように言った。だから、八代はわずかながらに安心できた。
 伊織が鞄の持ち手にぶら提げている腕時計で時間を確認する。出てきた声が「うわ」だったから、今度は八代が笑った。やっと笑えた自分に気づいて、とんでもなく緊張していたことに加え、不安だったことにも気づいた。
 伊織が不意に動きを止めた。先ほどまで八代の胸倉を掴んでいた手で、ちょいちょいと手招きしてくる。
「なに」
「いいこと教えてあげる。弘君大事にしてくれてるお礼に」
「……? うん。教えて」
 よくわからないがいい情報らしい。耳を貸せという仕草に従い、顔を寄せたら、
「疲れがわっと出てここで倒れちゃったってことは、それだけ安心してるってことだからね。ほかのどこでもなく、ここで倒れたんだから」
 何か――
 ――とても嬉しいことを言われたような気がする。
 八代の思考回路が正常に働きはじめるのを待たず、伊織は今度こそドアノブに手をかけた。どう言ったら、何を言ったらいいものか、せっかくもらった情報だがまだ整理できていない。理解が届いていない。けれど、
「宇佐美サン」
「なによ。今度はもう待たないよ」
 と言いつつ、伊織は律義(りちぎ)にふり向いてくれた。
「あ……ありがとう」
 で、おかしくない……ように思う。
 情報の解読はできていないが、お礼と言ってくれたのだ。もらったのだから、ここはやはり「ありがとう」だろう。
 悪戯な猫の目が嬉しそうに笑む。重い鉄扉(てっぴ)を開けた隙間から入ってくる電気の光にさえ透ける、長い睫。
「どういたしまして。また何かわかんないこととか……コレ系統の買い物はさすがにまだちょっと厳しいよね? 電話くれればいいから。じゃ、ごきげんよう」
「ごきげんよう……」
 びしっと敬礼して当然のように言われ、勢いに押されるようにして八代も同じ台詞を口にしてしまった。
 玄関扉が静かに閉まる。
 ――安心。
 弘が安心してくれているのだろうか。本当に?
 緩く手を握る。
 やわらかく、あたたかい何か。



 ふっと目を覚ました。と同時に、自分がどのような状況に置かれているのか把握するより早く、目が潤んだ。
 一気に思い出してしまった。黒いものが溢れ返って弘の心を覆ってしまう。
 すごく哀しくて、すごく寂しい。
 部屋は細く光が漏れ入って、ぼんやりとしている。遮光カーテンが半分ほど閉められていた。
 影に染まって灰色になっている天井を見つめたまま、弘はひそひそと泣いた。
 哀しくて寂しいのは、特別視されていることがわかったからだった。神聖視とさえ呼べるかもしれない。
 楽しく、嬉しく、安心して食事を取ったのはつい先ほどの話なのに、消化しきれず(くすぶ)っていた記憶が弘の鼓膜の奥で揺れた。
 彼は、「ゆるさないで」と言った。
 話し合わなければいけないことなのだから、忘れていたわけではない。なのに、なんだか突然襲われた気になった。
 夏の、(せみ)が鳴く晴れた日で、扇風機が回っていた。弘はアイロンをかけていた。
 ゆるすもゆるさないもなかった。そんな言葉、まるで対等ではない。喧嘩の話ではなかったのだ。
 八代が何か、悪いことをしたわけではなかった。
 罪を犯したわけではなかった。
 それなのに、彼は弘に対して「ゆるさないで」と言ったのだ。
 弘はどうしたらいいのかわからなくなった。
 肯定を否定されてしまったのだ。どう接したらいいのだろう。
 八代の告白は確かに重いものだったけれど、それが彼を拒絶する理由にはなり得なかった。まだ子どものことを考えたことがないからだろうか。欲しいとはっきり思ったことがないから、夢見たことすらないから、結婚の意思に揺らぎが出なかっただけなのだろうか。
 もしも今後、子どもを望むようになったら、八代と結婚したことを悔いる日が来るのだろうか。
 けれども、そんな『もしも』は思ったとしても(きり)がないことだ。不安に際限などないのだから、そこにばかり焦点を当てていたら身動きが取れなくなってしまう。
 子どもが欲しくて結婚を申し込んだわけではないという台詞は、本心からのものだった。弘は八代にプロポーズしたとき、はっきりと告げた。弘が結婚してくださいと言った理由は、彼が幸福に生きていることを(かたわ)らで見ていたいからというものなのだ。彼はそれを忘れてしまったのだろうか。
 結婚を申し込んだことを後悔などしていない。
 ただ、八代を苦しめているらしいことがひたすらつらかった。
 一緒にいることで彼が痛い思いをするのなら、弘は遠くに行く。遠くにいても、想うことはできるから。
 けれど、彼はそれは望んでいないのだ。(そば)にいてほしいとは思っている。
 我儘だと、両断してしまえばいいのかもしれない。思いつきはしても、弘にはできなかった。
 それらすべてがなおのこと、弘に対する特別視、神聖視に繋がっているのだろう。
 いい子だと思われているのがすごく哀しい。
 完璧だと思われているのがすごく寂しい。
 抱擁(ほうよう)を尽くしても伝わらないのがすごくもどかしい。
 特別な存在だと信じられているのが、ひどく痛い。
 ――わたし、神様に見える?
 彼は、「ゆるさないで」と言ったのだから。
 許さないでと。
 ――(ゆる)さないでと。
 何がいけなかったのだろう。どうすればよかったのだろう。彼が、自分は子どもを望めない身体だと口にしたとき、どのような反応をすれば納得してもらえたのだろうか。
 弘は、世の中には血の繋がった子どもを持てない人間がいるということを、恐らくは同年代の者たちよりもほんの少しだけ早く知っていた。母からそういった話を聞いたのだ。雅自身が、ふたり目は難しいらしい。特段病気というわけではない。だから不可能ではないが、母体にも子どもにも大変な危険がある状態になるとのことだった。
 何をきっかけにしてそのような話になったのかは覚えていない。でも、母の苛烈(かれつ)な一言だけは今でも違えずそのまま言える。
 ――子どもをつくることだけが人生のすべてじゃないのよ。子どもをつくらないのは罪悪ではないし、つくれないのは何かの罰が原因ではないの。
 母になることを恐れていた雅のその一言は、彼女の寂しげな微笑とともに弘の心に刻まれた。
 八代の告白に動じることがなかったのは、弘の中に根づいている、母という存在を畏怖(いふ)する雅がいるためだ。実母から伝え聞いた恐怖や葛藤(かっとう)が、弘の中にやさしく根を張っている。
 それでは駄目なのだろうか。
 どのような反応をするのが大多数なのだろう。大多数という名の普通はどこにあるのだろうか。自分は普通ではないのだろうか。
 性的に幼いという自覚はある。
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