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 つい今しがた自覚した。
 幸福に生きているところを見ていたいからと結婚を申し込んだが、夫婦は寝室のことがあるのだった。
 まったく考えていなかった。思いつきもしなかった。
 そういった関係を持たない夫婦も、中にはいるのだろう。けれど、八代は子どもについてを話してくれた。それは、彼がそういったことをきちんと理解している証拠だ。
 だから、弘が衝撃を受けたのは、実はセックスについてだった。
 八代は今も、触れ合いたいと望んでいるかもしれない。弘の無知と幼稚さを汲み取って、表に出していないだけかもしれない。
 もしかしたらセックスをすることになるかもしれないのだと思い至って、弘は、
「……こわい……」
 思わず声に出して泣いてしまうほど恐ろしい。恐怖の体験があるわけでもないのに、とても怖くなった。八代が何か、別の存在になってしまう気さえした。
「こわい……」
 嫌悪の感情はない。ただ怖い。どうしてかはわからない。恐怖の出どころが不明だから、不安まで広がってふくらんでいく。
「……おなかいたい……」
 下腹部に鈍痛がある。腰がずっしりと重かった。
 弘はいつも、生理痛はほとんどない。感情の振れ幅もあまりなく、苛々することも落ち込むこともほぼなかった。周期だってぴたりと安定している。
 だから、今回のような周期のずれ、肉体的な痛みや、気の塞ぎようははじめてのことだ。
 そろりと手を腹に伸ばした。なんだか布団がやけに重たい。なんとかもぞもぞと手を動かして腹に触れ、ぎょっとした。手に触れる感触はフリースだ。弘のクローゼットには、フリースの衣服はない。気にも留めていなかったが、どうやらフリースが巻かれているらしい。腰回りには、たぶんタオルが巻かれている。
 そもそも、あのあとどうしただろう。床を拭っていたことは覚えているが、終えられた記憶はなかった。むろん、八代とどのような会話をしたのかも覚えていない。大体にして、会ったのだろうか。十分後に扉を開けて、お騒がせしました申し訳ありませんと謝っただろうか。
 そんなあれこれに気づくと、途端に思考が現実とぶつかる。
 両手で腰回りを触ってみる。どう考えても衣服の感触ではない。
 そのとき、どくっ、と経血が流れ出た。身体が竦む。下着をつけていない。
 慌てて起きようとしたが、弘は小さく(うめ)いて再び布団に埋もれた。腹に、これまで感じたことのない鋭い痛みが走ったのだ。
「いたい……」
 本当は、痛いよりも、怖いだった。
 口にすることでなんとか散らそうとするのに、痛みはまったく引いていかない。
 ――痛い。
「柘植サン」
 (ささや)きに呼びかけられて、毛布に埋もれていた弘はびくっと肩を震わせた。恐る恐る見上げると、八代と目が合う。
「ごめん。びっくりさせたね」
「……いえ、……大丈夫です」
 か細い声で答えた。
 ノックはしてくれたのだろう。思考と痛みに巻かれてまったく気づかなかった。
 彼は一体いつから傍にいたのだろうか。「痛い」はともかく、「こわい」は絶対に聞かれたくない言葉だ。何がどう怖いのか、何故恐ろしいのか、具体的に、論理的にきちんと説明できる自信がない。
「具合は?」
 静かにやさしく問うてくれるから、弘は泣きたくなる。哀しくて寂しくてもどかしくて痛いのだ。たとえその原因の一部が八代にあるのだとしても、彼のやさしい声だけで安心して、弘は泣いてしまいそうになる。
「おなかが痛くて……腰も……で、ですが、あの、それより……」
 下着のことが気にかかる。
「わ、わたし、今、その……」
 どう言えばいいだろう。ものすごく恥ずかしい。
 八代がくすりと笑った。
「座ってもいい?」
「も、もちろんです。どうぞ」
「横になったままでいいよ。起きてる方が楽?」
 八代がゆっくりとベッドに腰掛けた。その体重を受けて、少しだけベッドが沈む。
 指先に前髪をくすぐられて、弘は頬を染めた。
「それは……わかりません。その、……それより……わたし、今どのような格好をしているのでしょうか」
 ワンピースを着ていたはずだ。といっても、弘のワードローブは九割方ワンピースだから、どれなのかという問題しかない。
 今日はブルーのストライプの、綿のシャツワンピースを着ていたはずだった。
「俺のシャツ着てるよ。下はタオルと毛布重ねて巻いてある」
「えっ?」
「ほかにどうしたらいいかわからなくてね。とりあえず足は拭いたんだけど、シャワー行く? 浸かりたいならそれでもいいし。湯船、ちゃんと溜めてあっためてあるから。あと、枕もと。宇佐美サンからの陣中見舞い」
 ぱっと横を見る。見慣れた不透明の緑色のビニール袋が置かれていた。礼儀正しい直方体のそれは、弘が毎月お世話になっているものだ。
「わ……ったし、倒れましたか?」
「うん」
「……いつ倒れましたか?」
「十分一秒」
 嘘だというのはわかったが、とにかく十分以内に倒れたのだ。出血しているのだからこれ以上は困るのに、ざっと血の気が引いた。引いたぶんが全部出ていってしまいそうな気がする。
「ごめんね。でもどうにもできなくて」
 伏し目がちに静かに笑った八代を見て、弘の中の羞恥心は、何故か潮が引くように収まっていった。
「汚れたでしょう? 申し訳ありません」
 八代のてのひらに頬を包まれる。そっと撫でられ、弘は涙を堪えた。
「汚れたりなんてしてないよ」
「嘘です。床だって……」
「ちゃんと拭いたよ」
 そこまでさせてしまったのか。申し訳なさが募る。
 やさしいてのひらから逃げて、布団を目のぎりぎり下まで引き上げた。顔を見られたくない。
「……わたしの裸、ご覧になったのですか?」
 口にしたら、収まったはずの羞恥が一気に身体に広まった。かあっ、と全身が熱くなる。
 八代が静かに笑った。
「残念ながら、全裸は見てないね」
 ということは、下は見られたのだ。しかも、経血で汚れきっているところを。
「怒る?」
 弘は改めて湧き出てきた羞恥で死んでしまいそうなのだが、八代はどうということはないらしい。緊急事態だったからだろうか。
「……いえ。ご心配くださったのですから……非常事態でしたし」
 そうだ。緊急事態で、非常事態でもあった。だから、助けてくれた八代は医者なのだと思えばいい。自分は具合を悪くしたのだ。それで診てもらったのだ。そうだとすれば、何も恥ずかしいことはない。
 ――恥ずかしい!
 無理だ。どう考えても恥ずかしい。だって、下半身なんて。下半身なんて、そんな。
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