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「柘植サンは、俺にしてほしいことって何もないの?」
「してほしいこと……」
 なんともいきなりな話だが、八代の様子からは切実さが伝わってくる。といっても、表情も声音も普段とほぼまったく変わらない。そこに切実さを見出せるのは、彼と過ごす時間で積んだ経験があるからだった。
「してほしいことですか。……あっ」
 同じ言葉を繰り返したあと、弘ははっとして声を上げた。大切なことを忘れている。
「お話の最中なのに、割ってしまって申し訳ありません。わたしの服と、……下着……はどうなさったのですか?」
 下着、の部分が小さくなってしまった。どうしても恥ずかしいのだ。
 してほしいことを考えて、してもらったこと、してもらっていることがたくさんあると思い、そこから、先ほどしてもらったことを思い出して、重大なことを思い出した。
 大量の経血で汚れてしまった服と下着の行方だ。
「下着は紙袋に包んでビニール袋の中。服は浸け置きしてあるよ」
 脱衣所にあったらしい。気がつかなかった。
「一応一回水で流し洗いはしたけど、感触としては諦めた方がよさそうな気がするね」
「流し洗い? 先輩、ごしごしなさったのですかっ」
「した」
 再び血の気が引いていく。浸け置きだけならまだしも、八代は直接手で触れて水洗いしてくれたのだ。
「申し訳ありません……そんな、浸け置きだけでじゅうぶんでしたのに」
 身体が縮こまって、声も頼りなくなる。八代はけろりとしているが、抵抗はなかったのだろうか。血なんてただでさえ避けたいものだと思うのに、よりにもよって経血なのだ。
「汚いとは思われなかったのですか?」
「全然」
 マグカップ越しに窺った八代は、いつもどおりの、不機嫌でないことはわかるのだけれど、何を考えているのかいまいち判然としない顔をしている。あまりにも常態だったから、弘は拍子抜けしてしまった。
「経血ですよ?」
「だからなに?」
「なに……となると難しいのですが……」
 血液だから汚いと思うだろうと言ったら、まったくそんなことは思わないと言われてしまった。血液は血液でも経血ですよと言ったら、今度は「だからなに?」。
 弘にはもう出す手がない。
「あのね柘植サン、あんまり見縊(みくび)らないでよ」
 長い指に、むにゅっと頬を摘まれた。眼鏡がわずかにずれる。
「柘植サンが大事なんだよ。これがほかの誰かなら、俺はここまでやってない」
 黒い瞳に覗き込まれて、弘はやっと理解した。
 恥ずかしい一方で心が静まったり、嬉しくなったりしたのは、先に覚えた安堵に基づいている。そして、とんでもない恥の中にあるにもかかわらず安堵できたのは、八代になら恥ずかしいところを見られても大丈夫だという確信を得られたからに違いなかった。
 見るだけでも躊躇われるほどの澱みに、彼は迷うことなく触れてくれた。
 隠したいものや、隠しておかなければならないものを受け入れてもらえたとき。隠さなくてもいいのだと信じられたとき、ひとはとても静かになれる。
 安らぐ。
 八代はこの安らぎを得られないでいるのだろうか。
「柘植サンは相手問わず助けるんだろうけど、俺はそこまで人間出来てないからね」
 穏やかな声に胸を刺し貫かれた。
 ずれた眼鏡を直そうとしてくれた手から逃れる。
「柘植サン?」
「出来ているなんておっしゃらないでください」
 マグカップをテーブルに置く。
 駄目だ。
 これ以上は駄目だ。泣いてしまう。寂しくて苦しくて、もどかしくて、きっと八代を責めてしまう。
 困らせてしまう。
 思っても止まらなかった。
「先輩、いつかわたしのことを『神様ではない』とおっしゃったでしょう」
 ――キミは神様じゃないから。
「言ったね」
「ほんとうにそのように思ってくださっているのですか?」
 ――特別に好きな誰か、ができても、何も悪くないよ。
 あのときの八代の声。
 やさしかった。
 弘が(なが)い、永い眠りから目覚めるきっかけとなった、あの声。
「思ってる。柘植サンは神様じゃないよ」
「それなら、どうしてゆるさないでなどとおっしゃるのですか!」
 自分でも驚くほどの切羽詰まった声音だった。
 涙が浮く。喉はもうとうに泣いていた。針で突かれ、何か知らない手に絞られているように痛い。
「あなたがどんなに悪いことをしたのだとしても、その罰が身体に現れたわけではないでしょう? わたしがそれを受け入れるのはそんなに特別なことですか?」
 (おさ)えきれなかった。絶対に泣きたくないのに、泣いてはいけないと思うのに、涙が(こぼ)れる。
「先輩はわたしを神様にしているではありませんか! わたしは、――わたしは神様ではありません!」
 ――おれをゆるさないで。
 ――わたし、かみさまにみえる?
 こんなこと、言いたくないのに。
 責めたくなんかないのに、どうしようもない気持ちになってしまう。
 ――見えないよ。ただの女の子にしか見えない。
 ――弘君は、ありふれてる。
 ひたすら寂しい。ふたりでいるのに、まるでひとりきりみたいだ。本当にひとりなら寂しくなどないのに、ふたりでいるから余計に孤独が胸を刺す。
 堪えきれなくて、弘は眼鏡を取って目もとを拭った。嗚咽が漏れる。
「……申し訳……申し訳ありません。……少し、不安定なだけです。生理中ですから……それだけです」
 無理矢理に深く呼吸して言った。そうとでも言わなければ、壊れてしまいそうだった。胸がからっぽで満たされている。落ち着きたい。
「失言でした。それに、驚かせてしまって申し訳ありません」
 指の間から溢れた涙が、手の甲に道をつくった。
「少し、ひとりになりたいので……お散歩に行ってまいります」
「柘植サン」
 立ち上がると、手を握られて引き留められた。
 いつもなら、笑顔で(こた)えられるのに。
 今はできない。
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