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「ひとりになりたいのです。帰ってきたら、いつものわたしになりますから」
 寂しくて、哀しくて、痛くて、(むな)しくて、苦しくて、
 でも、どうしても愛おしくて。
 だから涙が止まらない。
 八代の指が、ゆるゆると離れる。
 抱きしめられないのが八代の弱さで、不器用なやさしさだった。
 抱きしめてほしいと思わないのが弘の強さで、孤独の源だった。

 涙の行方がわからない。




 はじめて来たマンション近くの公園は、どちらかというと小さな広場だった。バスケットゴールが片隅にぽつんとあって、その対角線上、フェンスに沿うようにして低い鉄棒とシーソー、古ぼけた滑り台が並んでいる。
 弱々しい街灯が立つ広場の(すみ)のベンチに腰掛け、弘はそこでやっと自分が眼鏡をかけていないことに気づいた。視界がぼやけていたのは、涙と心持ちだけが原因だったわけではないらしい。原因は、これ以上なく単純だった。
 ハンカチで目もとを押さえ、涙を引っ込めようとする。喉が苦しくて、漏らしたくもない哀切(あいせつ)()せ返った。
 帰る気にはなれなかった。
 帰れる気がしない。どういう顔をしたらいいのか、まったくわからなかった。ひどいことを言ってしまったのだ。どんなに謝っても謝り足りない。
 けれど、いちばんの問題は、前言の撤回をしようと思えないところにあった。
 八代は今頃、何を思っているだろう。
 きっと傷ついているだろう。もしかしたら、弘以上に泣いているかもしれない。
 その点については謝る。確かに悪いことをしてしまったと思う。たとえ自分に正当性があったとしても、傷つけてしまったのなら謝るのが筋だ。だから、傷つけて申し訳ありませんとは言える。
 でも、彼を受け入れた自分を悪いとは思えなかった。だから前言撤回はできない。八代が何をどう言っても、子どもを望めない身体だという彼に失望しなかった自分に、不誠実があったとは思えなかった。
 八代は、多くの不利や不運を、すべて自分の責任にしている。罰だと考えている。生まれながらにして罪を犯しているから、何をも得られず、生み出せず、誰とも繋がれず、何ものとも結ばれずにいると思っている。
 親の因果が子に(むく)い、という言葉がある。確かにそういうしかないことはあるのだろう。その言葉でしか収められない何かは、実際に現実にあるのだろう。弘が知らないだけで、世界にはきっと溢れ返っている。
 八代はきっと、それをたくさん知っている。
 どうにもできない差だった。
 これまでの生き方、生きてきた環境、取り巻くひとびととの関係。弘と八代では、それらすべてに大きく深い隔絶(かくぜつ)がある。
 それは、とても冷たい。
 追いつかない。
 彼の手を包み、抱きしめて眠っても、八代の孤独や空虚は弘にはどうしてもわからなかった。
 ――帰れない。
 小さなくしゃみが出た。
 暗くなってからの外出など恐ろしい。特に、ひとりでなどとは考えられないことだ。なのに真っ暗な中に出てきてしまったのだから、完全に自失していたのだろう。
 早く帰らなければいけない。ひとりにしてくれと我儘を言った弘をそっとしてくれた八代だって、心配する。
 わかってはいても、帰るのが怖かった。
 ――わたし、どうしてこんなに怖がりなんだろう。
 叱られるのがいやなわけではなかった。
 唐突に責めた弘に傷つけられた八代が何を言うのか、どんなことを思っているのかを知るのが恐ろしい。
 新しい涙が浮いてくる。
 もういい加減止まってくれていいのに、視界はずっとぼやけたままだ。
 公園を取り巻く木々が黒い。ざわめきを不吉に感じるのは、弘が怯えているからだ。
 風がいよいよ冷たくなってきていた。
 くしゅん、ともう一度、小さなくしゃみが出た。
 そろそろ本当に帰らなければいけない。
「そんな薄着で、風邪ひくよ」
 至近距離から聞こえた慣れ親しんだ声に、弘は身体を強張らせた。面を上げるより先に、大きなカーディガンにふわりと肩を包まれる。
 懐かしいにおいだ。
 懐かしいと感じるほどに、彼はもうずっと弘の傍にいる。
「身体、冷やしたらだめなんでしょ」
 弘は怖々と顔を上げた。
 八代はいつもと変わらない、茶を淹れてカップを手渡してくれるときの穏やかな表情で立っていた。
「……申し訳ありません」
「こういうときは、ありがとう、なんじゃないの?」
「…………ありがとうございます…………」
 喉が苦しい。
 そんなふうにやさしくされたら、泣くしかなくなってしまう。
「わたし……ひどいことばかり申し上げました」
「そうかな」
 八代は気安い声で言って、弘の隣に腰を下ろした。
「うわ冷たい。柘植サン、座ってて寒くない?」
「……平気です」
 もうずっと座っているからなのか、それともそんなのんきな感覚を認識できないからなのか。
 ささくれた木製のベンチにてのひらを当ててみる。
 冷たかった。
「蒼い顔してるのに、平気だなんて言われても信じられないね。ほら、こっち向いて」
 肩にそっと手を置かれて、弘は怯えながら身体を八代の方へ向けた。
「袖、ちゃんと通して」
「はい」
 言われるままに、黒いカーディガンに袖を通す。思いきり余ってしまった袖を、八代は丁寧に折り返し、弘の(たけ)にちょうどいいようにしてくれた。
 胸もとに伸びてきた大きな手が、釦もきちんと留めてくれる。
「ありがとうございます……」
「うん。柘植サンの世話焼くの、楽しいな。癖になりそう」
 八代が言うと冗談に聞こえない。
「……謝るのは俺だよ、柘植サン」
 八代が目を伏せる。視線を()らしているわけではないことに、弘は安堵した。
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