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 大切な話をするのだ。相手から目を逸らしてはいけない。
 弘は知っている。目を逸らすから恐ろしいのだ。怖いものほど、まっすぐに見なければいけない。
 両親から教わった、大切なことのうちのひとつだった。
「柘植サンが泣いたのを見て、俺は安心した。目、(つむ)って」
「はい」
 おとなしく目を閉じる。両耳に馴染みの感触が戻ってきた。わざわざ眼鏡を持ってきてくれたばかりか、かけてまでくれたのだ。
「見えなくて困ったでしょ」
「……はい」
 実はここに来るまで気づかなかったのだが、それを言うとまた心配をかけそうだ。弘は肯定だけして、ありがとうございます、と繰り返した。
 八代が、ふっと息をついた。
「俺は受け入れられることに慣れてなくてね。肯定されると、どうしたらいいのかわからなくなる」
 しん、と夜の音が鳴った。
 両てのひらを差し出される。弘は素直に自身の手を重ねた。
 緩く握られた手があたたかい。
「その結果がね……まさかあんなふうに泣かれるなんて思わなかったから。柘植サンがあんなに泣くなんて思わなかったからね」
「驚かれましたか」
「うん。柘植サンも、ただの女の子なんだなあって思ったよ」
 ――普通の、ほんとにごくフッツーの女の子。
 伊織にはっきり指摘されたのに、八代は消化しきれないでいた。
 それでも、目の前であんな泣き方をされれば認めざるを得ない。
 弘は確かに頑丈だけれど、強さだけで構成されているわけではない。当たり前のことなのに失念していた。
 気づかないふりをしていた。
 それを認めれば自分がどれだけ弘に頼っているかがわかってしまう。はっきりと自覚したら、かえってこれまでとは比較にならないほどの重い苦しいものを彼女に負わせてしまう気がしていた。だから怖かった。
 けれど、弘は鷹羽や伊織が言ったとおり、ほんの少し思い切りがいいだけの、いつだってすぐ傍にいるなんでもない女の子なのだ。拒絶されたら哀しいし、傷つけば痛い。あまりにも痛ければ泣く。
 八代が怖がるぶんだけ、弘は哀しくなる。
「期待や崇拝が重いなんてね。これまで、どのくらい我慢してたの?」
「我慢なんて……」
 していない。
 神聖視されていることに気づいたのは、つい先ほどのことといっていいくらいに最近のことだ。
「それなのにあんな泣き方したの?」
 困ったように苦笑されて、弘は首を横に振った。
「あれは……我慢の限界だったわけではありません。もっと別のものです」
 言っていいのだろうか。
 また八代を傷つけることにならないか。
 でも、思うだけで涙がふくらむ。
「わたしは、寂しかったのです」
「……うん」
 八代の手に包まれている両手を、そのままぎゅっと握りしめる。
「わたし、きっと、先輩がお思いになっているほどいい子ではありません。ましてや神様なんて……そんな、……違います」
「うん」
「それなのに、そんなふうに思われているかもしれないのが、とても哀しいのです。すごく寂しい。ひとりぼっちみたいな気持ちになって、すごく心細いのです。あなたに、」
 ――抱擁を尽くしても伝わらないのが、これ以上なくもどかしい。
「特別な存在だと思われているかもしれないのが、痛いのです。すごく痛い。苦しい」
 収まっていた感情が(たかぶ)ってくる。涙が零れる。
「寂しいのです。ひとりぼっちみたいで……一緒にいるのに寂しくて、どうしたらお伝えできるのかわからなくて……あ、あなたと一緒にいたいのに、久我先輩……」
 もう、自分が何を言っているのかわからない。
 八代のてのひらから自身の手を抜いて、彼がかけてくれた眼鏡を外して、ハンカチも出さずに手の甲で涙を拭った。拭いきれないぶんが落ちていく。
「寂しいのです。寂しい、……寂しい……っ」
 (なぐさ)めてほしいとは思わない。
 伝わらないのが苦しかった。
 寂しさが伝わらないのが苦しいのではない。八代の中にある理想の弘と、現実の弘の間に、崇拝という壁があるのが寂しくてたまらない。
 ――わたし、そんなにいい子じゃない。
「柘植サン」
 静かに呼びかけられて、弘は泣き濡れた瞳で面を上げた。
「もっと我儘言ってよ」
 やさしい指先に涙を拭われる。(まばた)きで跳ねた(しずく)が、八代の指をわずかに濡らした。
 眼鏡を外した八代の(ひたい)と、弘の額がこつんと触れ合う。
 彼の少し長いやわらかな黒い前髪が、弘の癖っ毛とやわく絡む。
「ねえ」
 八代はとても愛おしげに微笑んだ。
「俺を困らせて」
 甘い声の密やかな囁きに、弘は一瞬息を詰めた。
 ――その一言は。
「そ、そのような……ご迷惑、な、こと……」
 弘はそれでも弱々しく首を横に振った。
 無駄な抵抗だとわかっている。だって、
 ――胸があったかい。
 八代があたためてくれた胸が詰まって、心が溢れて苦しくて、涙のままぱちりと(またた)く。
「迷惑かけ合って感謝し合って生きてくのが人間なんじゃないの?」
 濡れた頬を八代の指先にくすぐられる。幼かった頃にもらった雅の言葉をそのまま言われて、弘は睫を瞬かせた。
 誰にも迷惑をかけずにいられる人生などない。
 だからひとは感謝する。自分がかける迷惑を受け入れてもらい、同時に、ひとの迷惑を受け入れる。
 八代は我儘をねだってくれている。困らせて、なんて言って甘やかそうとする。
 それは、はじめて八代がほんとうの意味で自発的に抱きしめてくれた瞬間だった。
 八代が抱きしめてくれたのは身体ではなかった。彼の言葉が、ただ対等に、弘を平凡な女の子として扱って抱きしめてくれた。
 人間なのだと言ってくれた。
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