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 弘は泣いた。困らせる方法なんて具体的にはわからない。
 でも、涙が止まらなかった。
 ――俺を困らせて。
 呆気(あっけ)ないものだった。
 そんなくだらないたった一言で、八代は彼自身の中に残っていた弘の偶像も、弘が自覚したばかりの神聖視の対象である彼女自身の偶像も、すべてまとめてやさしく溶かしてしまった。
 偶像はやわく、淡い泡沫(うたかた)の夢みたいに甘く(ほろ)んだ。
 きれいな色の紅茶に落とされた角砂糖が緩やかに姿を消すように、理想化されていた弘は静かに溶け崩れた。
 まるで永遠みたいな刹那だった。
 それはこれまでずっと弘を縛り、八代に縛られてきたものなのに、神髄(しんずい)はこれ以上なく(もろ)(はかな)かった。
「さすがに寒いね。帰ろ」
 髪の先を悪戯に撫でてそう言ってくれる八代は、いつもとまったく変わらなかった。学校の温室で遣り取りしてきたときと同じだ。彼自身が何かの植物のように、穏やかに静謐(せいひつ)に存在している。
「ほら、柘植サン」
 眼鏡をかけ直して立ち上がった八代がふり向く。花のために整えられた手を、そっと差し伸べてくれる。
「おいで」
 声を出したらまた泣いてしまいそうで、弘はただ頷いた。
「まだ寂しい?」
 手がそっと触れ合う。まるでずっと前からそうだったように、八代は弘にやわらかく触れた。
 そのまま指先を緩く繋ぎ合わせる。
 手を繋いだのもはじめてだった。
 八代に微笑とともに問いかけられて、弘はぐずぐず泣いた。
「少しだけ……」
「立ち直るのに時間かかりそう?」
「はい」
「俺のせい?」
 弘は迷って、それからこくりと首肯した。
「はい。先輩のせいです。先輩がわたしを寂しい気持ちにさせたのですよ。ひどい方です」
 言いながら、繋いだ八代の手を少しだけ強く握る。
 大きなてのひらだ。少し硬くて、何よりとてもあたたかい。
「上手に責任転嫁できたね。かわいいよ」
「……そうですか?」
 何がどう繋がったらかわいいになるのか、その部分にどうにも理解が及ばなくて、弘の返事は曖昧(あいまい)になってしまった。
 こくんと首を傾げて考えていたら、
「ちゃんと前見て歩かないと転ぶよ」
 と注意された。
「は、はい。そうでした」
 前を見て歩いていても転ぶのだ。幼い頃だが、雨の日に顔から転んで血塗(ちまみ)れになったこともある。
「……どうして、急にわたしをただの女の子にしてくださったのですか?」
 今さらながらになんだか気恥ずかしい。まごつきながら尋ねると、八代は微苦笑した。
「柘植サンが、俺が困るほど泣いたから。安心したって言ったでしょ」
 感覚的な質問の仕方だったのに、八代はわかってくれた。
「柘植サンが泣いたのを見て、ああ、人間なんだなあって……身体の調子が悪くなるくらい不安定になるなんて、なんの変哲もない女の子なんだなあって気づいただけだよ。柘植サン、完璧じゃなかったんだね」
 繋ぎ合わせた手を、やさしく握られる。
「でも、特別なのは変わらない。柘植サンを神様だと思ってるから特別なんじゃないよ。そこは勘違いしないで」
「……はい」
 その特別は、きっと。
 きっと、好き、という気持ちだ。
 好きにはたくさんの種類がある。弘はまだうまく仕分けができないけれども、種類があるのだということはもう学んだ。
 八代は、『特別』な『好き』に弘を当て嵌めてくれているのだ。
 特別にも種類はある。八代の抱く特別がどんなものなのか、それは彼にしかわからない。けれど、特別なのだと告げられて、弘の頬はほんのりと熱を帯びた。
「先輩」
「なに?」
 誰も通らない夜道だ。暗がりがひたすら続いている。街灯の数は少なく、あってないようなものだ。街灯よりも、月の面の方がよほど明るい。
「わたしは出来た人間だと、今でもお思いですか? いい子だって……」
「うん。それはね。実際いい子だから仕方ない」
「……そう……ですか……」
 肩が落ちる。ふりだしに戻った気がして弘はしょんぼりしたのに、八代は笑った。
「ただの褒め言葉だよ。他意なんかない」
「ほんとうですか?」
「本当。出来てると言い難い神様だってたくさんいるでしょ? 出来てるどころか、神様って洋の東西を問わず結構我儘で自分勝手だからね。でも、それと同じくらい人間にだって出来てるのはいっぱいいる。柘植サン、誰かに対して、いいひとだって思ったことないの?」
「よくあります」
「そういうことだよ。それだけ」
「それだけ……」
「うん。それだけ」
 それだけ、と口の中で繰り返して、そしてやっと、弘は頬をほどいた。なんだか、久しぶりに笑った気がした。
「今までごめん。さっきも、すぐに抱きしめればよかったね。そのつもりで一週間会うの我慢してきたのにできなかった。こんなに難しいなんて思わなかったよ」
 八代の声は静かでやさしい。彼も戸惑ったのだ。突然の弘の涙とその内容に困惑した。
 神様じゃないなんて泣きながら訴えられて、八代はどれほど驚いただろう。弘からその言葉を引き出したのは確かに過去の八代なのに、今の彼はただの女の子の弘を(おそ)れている。
 そんなふうに懼れるのは、弘が心底大切だからだ。
 不思議なものだと思う。言わなければ伝わらないのがひとの心なのに、言わないままに通じてしまう想いもある。
 歩み寄って、譲り合って、ぶつかり合って、傷つけ合ったら手当をし合って、どちらも痛い思いをして、最後には手を繋ぐ。
 きっと、それがともにあるということだ。
 弘は笑って、すう、と深呼吸した。
「もう大丈夫です。困らせてしまって申し訳ありません」
「もっと困らせて。あの程度、まだまだ甘いよ。俺は比べものにならないくらい我儘放題言って、柘植サンに甘えてる」
「はい」
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