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 弘の胸は明るかった。あたたかくて、身体が軽い。
「わたし、ただの女の子です」
 宣言のような台詞は唐突だけれど、けして唐突ではない。ふたりが揃って、やっと得られた本物の真実だ。
 八代が珍しく、かすかな笑い声を立てた。
「うん。ただの――これから我儘になってくれるとうれしい女の子だね」
 くすぐったくなって、弘はふふっと肩を震わせて笑った。
 帰ったら、飲みかけのココアが待っている。
「では、ココアをあたため直してください」
「それは我儘じゃなくてただのお願い」
「自分でできることをしていただこうというのですから、我儘です」
「……まあ、順を追うっていうのも大事かな」
 笑ってくれる八代がやさしくて、手を繋いでくれる彼の指先がまるで花に触れるときみたいに繊細で、弘は泣きたいくらいに穏やかになれた。
 涙は哀しいときだけのものではないのだと、そのとき不意に思い出した。



 八代が感じたとおり、ワンピースは諦めた方がよさそうだった。血液用の溶剤を使ってもたかが知れる程度だというのが明らかだったから、残念ながら古布行きだ。雑巾にするのは恥ずかしい。
 お気に入りのものだから残念だけれど、こればかりはどうしようもない。弘はちょっとばかりしょげながらワンピースをどうしようかと考えた。脱水にかけるのも非常に(はばか)られるが、かといって干すのも恥ずかしい。
 八代はといえば、あたため直したココアを弘に渡したあと、ベッドの横に布団を敷いた。弘がマンションに来るようになってから購入した来客用だ。
 一緒に寝ることが当たり前になっているけれど、自分のことだから何をしたくなるかわからない。柘植家とは違うのだ。完全なふたりきりのときに突然の衝動に襲われるのが怖くて、せめて気休めになってくれればと思い買ったのだった。
 まさかこんなふうに使うことになるとは思わなかった。
 弘は案の定布団を使うと言い出したが、
「この布団、来客用だよ」
 の、一言で黙った。
 彼女は部屋に戻ってきた途端また頬を赤らめた。八代としては何がそんなに恥ずかしいのかわからないのだが、色々考えを巡らせて、生理云々よりも半裸を見られたからかな、という点に至った。非常事態といっても部位が部位なのだ。八代は医師ではないし、素肌を触れ合わせることもまだしていない。
 時計の音もしない部屋が静寂に沈んでいる。
 弘の部屋の目覚まし時計の音に慣れてしまってからというもの、八代は自分の部屋の無音によそよそしさを感じてしまっていた。
 八代は眠れないままだ。
 ――こわい。
 気づかなかったふりをしたけれど、八代は弘の怯えた(つぶや)きを聞いた。問い(ただ)したわけではないが、妙な確信がある。
 弘は、性体験を恐れている。
 彼女の過去に何かがあったのか、それはわからない。もしかしたら、暴力を受けたことがあるのかもしれなかった。けれども、何故かそうではないと思う。違うような気がする。弘はただ怖いのだ。漠然と怯えている。
 男と女の違いといえば、それがいちばん近いのかもしれなかった。
 女性の性は痛みを(ともな)う。鷹羽が言っていたように、身体に決定的な変化が訪れる。受け入れるのには相応の覚悟がいるだろう。
 むろん、そんなことなどお構いなしの女性もいる。好奇心や(あこが)れの方が強く、飛び込んでいける者もたくさん存在する。特にこれといった感慨を持たない者もいるだろう。どの場合が優れているというわけではない。ただの個人差だ。
 弘は単純に、そういった者たちとは対極にいるのだろう。
 変わってしまうかもしれない自分や、別人に感じられる八代が怖いのだ。明確に言葉にして説明できない不安が、彼女を戸惑わせている。
 結婚を申し込んできたときも、一緒に寝ましょうと八代を安心させてくれたときも、弘は性とは遠かったに違いない。
 この生理の一件に至ってはじめて、彼女はセックスを意識したのだ。
 ベッドの毛布に埋もれて眠っている弘の腹に、そっとてのひらを乗せてみた。
「……先輩……?」
 かすかな声が聞こえて、八代は反射的に弘の腹に触れていた手を引いた。
「……ごめん」
「……? どうして謝るのですか?」
「いや、……」
 上手い言い訳が出てこない。謝ったのも反射的なものだった。
「……柘植サン、子ども好き?」
 傷つこうとしている。
 でも、いい加減にしてはいけないことだ。
 八代は弘に身体のことを告白したが、あのときは肉体的な面だけの話だった。
「はい。好きです」
 まだうっすらとまどろんでいるような声が、予想どおりの答えを返してくる。
 彼女に罪はない。
 八代もそれはわかっている。
「俺は怖い」
 弘の腹に触れていた手を握る。あの場所は命が宿るかもしれないところなのだと思うと、自分の手がひどく汚らわしいものに思えた。
 あたたかい手だと言われた今になっても。あたたかくやわらかな何かが戻ってきたてのひらでも。
 八代はこれまでずっと、相手との同意のもとに自分の身体に暴力を振るってきたのだ。行為を交わした女たちは、時折(たわむ)れに触れた男は、どのように感じていただろう。
「子どもは……嫌いとは思わないけど、扱い方はわからない」
 子どもはすぐに傷つく。壊れる。崩れてしまう。誰かが守らなければ生きていくことができない。ビー玉を飲み込んで死ぬのが子どもなのだ。殴られ続けて、あまりの痛みに涙も出なくなるのが子どもなのだ。
 どう接しろというのだろう。あんな繊細な脆い生き物に。
「柘植サンが子ども欲しいって言っても、俺は頷けない。身体の話だけじゃなくて。……精神的に無理なんだ」
 (まぎ)れもない八代の本心だった。隠せない、隠してはいけない本音だ。
 世の中では、孫の顔を見せるのが親孝行なのだという。
 お笑い草だ。八代は実の親にさえ顔を見てもらえなかった。見られるときは憎悪の瞳で、呪いの言葉と逆恨みのてのひらがふり下ろされるだけの顔だった。孫の顔など誰が喜ぶだろう。
 ――博さんと雅さんは喜んでくれるかもしれない。
 かも、ではない。彼らはきっと、目も開いていないやわらかい命を笑顔で抱きしめてくれるだろう。
 そう思うから泣きたくなる。
 埋まらない(みぞ)だ。
 届かない距離だ。
 遠いぬくもりだ。
 弘にどれだけ抱かれても、どんなに彼女を抱きしめても、
 ――だめだ。
 なんというモノクロームだろう。極彩色(ごくさいしき)のモノクローム。比類を許さないコントラスト。
 弘の体温さえ透けていく。
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