back  |  next   
「赤ちゃんを産んだり育てたりするのは、とても尊いことです。ですが、男性も女性も、赤ちゃんを産んだり育てたりする道具ではありません」
 深夜の無音の中、弘の声はやけにはっきりと聞こえた。
「久我先輩は人間です。道具ではありません」
「……俺が言ってること、わかってないでしょ」
「他人ですからわかりづらいのは当然です。話し合いましょう」
 弘は時々ひどく残酷だ。いつも溢れそうなほど満たしてくれるくせに、突き放すとなったら一切容赦してくれない。
「久我先輩。ご迷惑でなければ、こちらへ来ていただけませんか?」
 そう言うと、弘はころりと八代に身体を向けて、力の入っていない腕で上掛けをめくった。入ってこいということらしい。
「……いいの?」
「はい。あ、大丈夫です。血液がつくようなことはありませんから」
 八代が言ったのはそういう意味ではない。疲れているときはひとりで布団を使った方がいいから、それを伝えたかっただけだ。少しぎくりとしたような弘の表情と言葉から察するに、八代が経血の漏れや付着を気にしていると思ったのだろう。
 そんなこと、と言っては失礼かもしれないが、八代にとっては、そんなこと、だ。弘だから、その程度のことなどなんとも思わない。とはいえ、仮にそれを伝えたとしても、彼女にとって重大な懸念事項であることは変わらないのだろう。
 弘がふわりと笑う。
「寒いので、抱っこしてあたためてください。身体が冷えるのです。……あっ、大丈夫ですよ。さすがに凍えるようなことはないと思います」
「生きてる人間が冷えてる程度の温度で凍えるようじゃ冬越せない。安心していいよ」
 どちらかというと、寒いから抱いてあたためてくれという台詞の方が問題だった。深刻に思い悩んでいるのは事実なのに、のんきな顔の別の自分はさっそく(よこしま)なことを考えてしまった。
「わたし、実はひとりっ子ではないのです。次女です。姉がいます」
 八代が隣に収まるのを待って、弘が言った。
「……そうだったの?」
 驚いていると、背中が冷たいと淡く訴える弘が、ふふっと笑う。
「リビングに、ピンクのミニバラがあったでしょう?」
「うん」
 身体が冷たいのです、という弘に触れるのははじめてだ。触れた背中にある体温はいつもと同じような気がしたけれど、そっと腕を伸ばして抱き寄せた。
 冷えきっているらしいのがどうにも不安で心配で、上掛けを引っ張り上げ、弘の首どころか頭まですっぽり覆う。くすくす笑う声が聞こえた。ありがとうございます、という声も。
「みさと申します」
「お姉ちゃんの名前?」
「はい」
 布団の中で上向いた弘と目が合った。むに、と頬をつねってやる。やわらかくてあたたかい。
「薔薇は『さうび』と書くでしょう。『み』は美しいの美。『美しい薔薇』で、美薔(みさ)です」
「名前つけたの雅さんでしょ」
「よくおわかりになりましたね」
 わからないわけがない。
 あの薔薇は博が雅に贈ったものなのだ。今はもうインテリアになっている年季の入った赤いトースターを、統子(とうこ)さんと呼んでいるのも知っている。
 何故女性の名前で、何故『統』という漢字なのかも聞いた。
 理由は、(かまど)の神が女神だから。竈は台所を()べる、神聖なものだから。
 コンロではなくトースターにその名をつけたのは、雅が博を愛しているからだった。博が、そのトースターをずっと、ずっと大切に使っていたのを知っていたからだった。だから、雅の目には、あの赤いトースターがキッチンの主に映ったのだ。
「姉がいなかったら、わたしは生まれていなかったのです。今ここにはいなかったのですよ」
 少しずつ控えめに近づいてきた弘が、ぎゅっと身体を寄せてくる。やわらかい癖っ毛を()いて、指先で耳の輪郭(りんかく)を辿った。
「母は、赤ちゃんを産むのが怖かったそうです」
 静かな声だった。弘の背中は不安になるほど小さくて、肩は華奢だ。
「子どもはかわいいと思うけど、自分が子どもを産んで育てていけるとは思えないし、そういうことをしていい人間だとも思わない、と。毎日泣いて、父を傷つけてばかりになるくらい不安でたまらなかったといいます」
 想像できなかった。いつも母としてたおやかに微笑んでいる雅に、そんな葛藤があったなどと信じられない。博を傷つける彼女の姿も、言葉も思い浮かべられなかった。あの雅がどんなふうに取り乱していたというのだろう。
 ――泣き叫んだわ。
 もう想い出なのだ。だから雅はあんな悪戯っ子のような顔ができたのだ。
 弘が、すり、と八代の胸に額を擦りつけた。子どもじみた仕草に胸が苦しくなる。
「そういった不安ばかりだった母が、わたしを望んで産んでくれて……母が……」
 ふ、と言葉が途切れた。泣きそうになっているのだと気づいて、八代は弘の背をやさしく撫でた。
 愛おしむ触れ方のすべては、弘から教わったことだった。
「母が、子どもをつくることだけが人生のすべてではないのだと……子どもをつくらないのは罪悪ではないし、つくれないのは何かの罰が原因ではないのだと……」
 弘の声が涙まじりになる。華奢な背中が頼りなく感じられて、八代はやわらかく彼女を抱きしめた。
 いつも弘がしてくれることだ。
 はじめて眠れたとき、弘はこうして八代を胸に抱いてくれていた。
 あのときのあたたかさを、安らぎを、こころの充溢(じゅういつ)を、忘れたことはない。
「ですから、わたしは……あなたの中に罪悪や罰があるとは思いません。もしあったとしても、拒絶なんて考えられないのです。無理に求めたりなんてしません。幻滅も失望もいたしません」
「……うん」
「ゆるさないでなんておっしゃらないでください」
「うん」
「あなたと一緒にいたいのです」
「うん」
 腕の中で、弘が小さく噎せた。薄い背中をやさしく擦る。
「柘植サン」
「はい」
「安心していいからね」
 罪悪でもなければ、罰でもない。
 弘が受け入れてくれた(いしずえ)に雅の存在があるのだと知って、やっと()に落ちた。弘の中に根づく生命の許容の根幹は、雅が支えていたのだ。
 雅がどのように泣いたのか。
 考えるまでもなかった。
 弘が泣いたように泣いたのだ。
 弘が八代に「わたしは神様じゃない」と訴えたときのように、雅も激しく哀しく泣いたのだろう。
 母というものを畏怖(いふ)したのだろう。
 もしかしたら、母となった今でもその畏怖を胸に抱いているかもしれない。
「柘植サンが怖いと思ってるうちは、俺は柘植サンに何もしない」
「……え……あっ……?」
「ごめんね。聞こえてた」
 ぱっと面を上げた弘の顔が一瞬にして朱に染まる。その様子を見て、八代は自身の確信が正しかったことを知った。
「わ、わたし……、先輩……わたし」
 back  |  next



 index