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「セックスは怖い?」
 八代が子どもを恐れるように、弘にも怖いものがある。
 弘はわずかに視線を彷徨(さまよ)わせて迷い、それから項垂(うなだ)れるようにして頷いた。
「はい。……申し訳ありません……」
「謝る必要なんてないよ」
 やわらかい癖っ毛を梳いて、そのまま前髪をかき上げる。弘は素直に上向いた。
「いくらでも待てる。柘植サンが俺を受け入れてくれたのと同じだよ」
 露わになった白い額に、そっとキスを落とした。
「あ……?」
 唇を離すと、大きな鳶色(とびいろ)双眸(そうぼう)が驚いていた。
「ごめん。いやだった?」
「いいえ!」
 慌てた弘がふるりと首を横に振る。
「……うれしい……ありがとうございます」
 言いながら弘が伸び上がろうとするので、八代は笑ってしまった。布団の中で腰を折って、少しだけ顔を近づける。
 額に、いつもと同じやわらかさが触れた。左(まぶた)にも。
「ありがとう。今日もよく眠れそう」
 囁くみたいに告げたら、弘がはにかんだ。
「わたしもです。……先輩」
「うん?」
「ありがとうございます。わたし、きっと大丈夫になります」
 細い指先がそろそろと近づいてきて、頬に触れられた。たったそれだけの触れ合いが甘い。
「慌てなくていいからね。ご褒美を待つのは嫌いじゃないよ」
 指を捕まえてやさしく握り込む。嘘でも見栄でもなかった。
 これが弘を大切にするということなら、八代はいくらでも待てる。
「先輩、大好きです」
 弘の無邪気な告白と笑顔を見て思う。
 自分に経験があるということに、八代は助けられている。もしも未経験だったら、欲望の抑制は困難だろうし、余裕など絶対に持てない。実際にはっきりと言葉に出さなくても、沈黙で責めることすらしてしまっていたかもしれない。経験はどんなものであっても良くも悪くも蓄積するもので、思考、行動、心の持ちように大きな影響を与える。ふり返って冷静に捉えてみれば哀しい経験だけれど、今はそれがプラスに働いているのだ。人生に何が起こるかわからないように、どんな経験がどこでどのように活きるのかはわからない。
 八代は長い間ひとを(しいた)げ、踏み(にじ)ってきた。あるときは無関心という名の拒絶を示し、あるときは真綿で首を絞めた。己を傷つけ、殺すには、それがもっとも確実で容易で手っ取り早い手段だったのだ。
 そして、関係してきた者たちはみな一様に、自覚の有無にかかわらず、八代を丁寧に傷つけてくれた。
 その点に関しては、八代は自分自身を汚いと思う。けれども、弘を大切にすることを通じて、もう会えない、過去自分を通り抜けていった透明な影たちを慰撫(いぶ)することはできる。なかったことにはできないけれど、(むな)しいだけのものではないのだと信じられる。それは、自分自身をも信じるということだ。自分の過去を肯定するということだ。信頼や肯定は、これまでの八代に決定的に欠けていたものだった。
 相手との合意のもとただひたすらに自分自身を傷つけてきた八代が根底から変わる。たとえどんなに不器用でも、弘にぬくもりで接し、彼女を愛おしむことで、愛情ややさしさを交わすという真実の意味での触れ合いを少しずつ身につけていくのだ。
 あたたかい触れ合いを当然のものにできるのはまだ少し先のことではあるけれど、それでいい。八代にも時間は必要だ。
 受け入れてもらえる、肯定される自分を自分で認められる時間が、八代には必要だった。



 フライパンの上で、ホットケーキをくるりとひっくり返す。
 弘がふにゃふにゃと起きてきた。パジャマの袖で目を擦っている。寝癖だらけで着替えていない上に眼鏡をかけておらず、おまけにスリッパも履いていない。
 完全に寝ぼけている。
 寝ぼけている彼女を見るのははじめてだった。
「んう」
「おはよう柘植サン。ホットケーキだよ」
 八代は男なので、生理がどれほどつらいのかがわからない。痛かったり疲れたり精神的に不安定になったり、毎月毎月大変だなとは思う。ついでに、月に一度股座(またぐら)から流れるほどの血が出てくるとか冷静に考えたら怖すぎる。
 八代は五時には起きなかった。弘が心配でベッドから出られなかったのだ。六時になっても彼女は目を覚まさず、顔色こそ悪くはなかったけれど、消耗(しょうもう)しているようには感じられた。
 寝坊することにした。
 さっさと起きる性質(たち)の八代は当然眠れなかったが、弘に寄り添ってただ目を閉じた。あたたかくて、やわらかくて、気持ちがよかった。
 自分が触れたことで、彼女が汚れたり壊れたりしなかったことに安堵した。
「ほっとけーき」
「オレンジ欲しい?」
「んう」
 今度は反対側の目を擦る。
「食べる? ジュースにする?」
「たべる」
「おいで」
「んう」
 よろっとふらついた。ひぃっと驚いたが、幸いなことに彼女は転ばず、むにゃむにゃとやってきた。
 オレンジを切り分けて薄皮まで取る。一口大にカットしてくちもとに持っていってやったら、弘は無防備に口を開けておとなしく食べた。
 彼女のやわらかい唇が、ほんの少し指先に触れた。
「おいしい?」
「んう。あまい」
「それはよかった。顔洗っておいで」
「んう」
 ふにゃふにゃ、むにゃむにゃと移動する。
 で。
 顔を洗い、髪を整え、着替えて眼鏡をかけて『いつもの柘植サン』になった弘は、テーブルに着く前に真っ赤な顔をして八代に頭を下げた。
「寝ぼけていましたよね? 寝ぼけていました。失礼をしてしまいませんでしたか?」
「全然。寝ぼけてる柘植サンかわいかったよ。田崎氏には本日休業の電話しといたから安心して」
「あ。ありがとうございます」
 きれいさっぱり、すっぱり忘れていた、と顔に書いてあった。
「食べよ。せっかくあっためたホットケーキが冷める」
「いただきます」
「おはようは言ってくれないの?」
「おはようございます! 先輩、先輩はこちらのホットケーキ、ごはんですか? おやつですか?」
「ごはん。ブランチ」
 ホットケーキに蜂蜜をかける。弘はメープルシロップをかけた。
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