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「十時まで寝たのはじめて」
砂糖たっぷりのミルクティーを飲む。湯気がふわりふわりと浮かんで流れる。 こんな、朝とも昼ともつかない中途半端な時間に活動を開始したのは初体験だった。外がものすごく明るいのだ。違和感はあるが、悪い気がするわけでもない。 「わたしにお付き合いくださっていたのですか?」 「うん。ほっとけなかった」 赤いマグカップを両手に包んだ弘が頬を染める。 「ありがとうございます」 「正直に言うと、ほっとけなかったっていうよりは、ほっとくのがもったいなかったんだよね」 「……?」 マグカップの中は蜂蜜を溶かしたホットミルクだ。ココアとどちらにしようか迷って尋ねたら、彼女も迷った。 じゃんけんをした。 弘が勝ったらココア、八代が勝ったらホットミルク。 八代は牛乳を鍋にかけてあたためた。 「寝こけてる柘植サンがかわいかったから、見てて飽きなかったんだよ」 笑って言ったら、弘はむうと 「やめてください。恥ずかしくて眠れなくなってしまいます」 「飽きたらやめるから、飽きるまで付き合って」 「いやです。だめです」 「だめなの?」 「だめです」 そんなことを言って難しい顔をしていたくせに、ホットケーキを食べた瞬間、彼女はころりとしあわせそうになった。その様子に笑いながら、八代もホットケーキを食べる。 「おやつにプリンつくってあげる」 弘が目を輝かせる。満面の笑みで頷いてくれたのが嬉しくて、八代の微笑は甘くなった。 八代はリビングに放るように置いてある硝子テーブルで勉強する。勉強机とかパソコンデスクとかいうものを持っていない。ダイニングテーブルは彼にとっては食事をするためだけの場所だから、そこにノートを広げることはしなかった。 弘はワンピースの上に八代の黒いカーディガンを着て、ソファに座り、熱心に本を読んでいた。 ページのめくりの方向が違う。横文字を追っているらしかった。 「柘植サンなに読んでるの?」 ペンを休ませて尋ねたが、答えがない。 「柘植サン」 顔を上げてくれない。 「柘植サン」 まだ無反応。 「柘植サン、気づいて」 はっとしてやっとページから顔を離した。 「あっ……はい。申し訳ありません、気がつきませんでした」 「そのようだね。なに読んでるの?」 「『デミアン』です」 ――鳥。 鳥は神に向かって飛ぶ。 神の名はアプラクサスという。 ――柘植サンは神様じゃない。 「はじめて?」 「いいえ。何度も読んでいます」 「なんで今?」 「次ちゃんに、持ってたら貸してほしいと言われたのです。それで、久しぶりに読んでみようかと」 ――あんた、鳥だったのか。それともなんだ、その、アプラクサスか? ――俺って支配者に見える? 「柘植サンがつくった卵、有馬サンに見せてもらったよ」 たまご? と弘はすぐにはわからなかったようだが、「ああ、六年生のときの」と呟いた。 「あれをつくったあとに『デミアン』を読んだものですから、どきっとしました」 参考にしたんじゃないのか。 「どこから来たの? あの発想。卵の中に空って」 「空があるような気がしたのです」 「……へえ」 たぶん、これ以上訊いても弘は答えられない。彼女は本当に卵の中に空がある気がしただけであり、それをつくっただけだ。だから、追及しても何も出てこない。 「わたしは卵の中は明るいと思っているのですが、暗い地球と表したのですから、シンクレールにとっては暗いものなのでしょうか。……そこからぬけ出ようとしたなら、アプラクサスがいる空は明るいのかなあ……背景は青空だし……」 後半は独白だった。 暗いところから暗いところは、きっと目指さない。 苦心してでもぬけ出そうとするのだから、憧れるものがあるのだ。 世界を支配していない弘はアプラクサスではない。彼女は神様ではなく、完璧でさえなかった。けれど、八代の憧れの先にいることに変わりはない。 弘の上に広がっているのは青い空だ。丸い白い雲が浮かんでいる静かで穏やかな空だ。 八代がつくり上げた世界の内側からは、青い空が見える。 八代の世界は暗い。 地球のようだ。 ――これは柘植サンの影だ。 彼女は陽の光を浴びているから、足もとには影ができる。 八代は影の中にいた。 ほんの少し前まで神様のような気がして、完璧のような気がして怯えていた女の子の影の中に、八代の世界はあった。 空のない世界を支えている。崩れ落ちそうになっているのを支えている。 ――いつまで? いつまで支えていればいい? 壊れた世界にはいられない。 |
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