back  |  next   
「ねえ、柘植サン」
「はい。なんですか、久我先輩?」
 ふり向くと、察した彼女は本を閉じて座面に置き、ソファから下りて八代の隣に座ってくれた。
「柘植サン、俺の……親、に、挨拶(あいさつ)に行こうとしたよね」
「はい」
「両親に会ってくださいって言うんじゃなくて」
「……はい」
婿(むこ)養子に入ってほしいってこと?」
 それぞれの家庭の事情はもちろん、その他様々な理由で異なってくるものだろうが、一般的には、『もらう』側が先に挨拶に出向く。弘は最初に、八代の両親のもとへ挨拶に行くと言った。時間も経って冷静になり、それで思い出したのだ。
 弘は唇に微笑を乗せた。
「いいえ。特別にそのようには思っておりません」
 こういうとき、弘は残酷だと思う。
 でも、もうわかっていた。彼女に対して残酷だと思うのは、八代が、どうしようもなく弘を想っているからだと。
 弘のひとことに安堵し、静かになれる一方で、やさしい言葉にひどく傷つく。思い遣りからきている言葉だとわかっていても、それを残酷だと思ってしまう。そう感じるのは、持て余すものがあるからだ。
 弘の微笑はいつもきれいで、だから八代は苦しくなる。
 未だに、苦しくなる。
「お嫁に行くのも、お婿さんをもらうのも、わたしはどちらでもかまいません。一人娘ではありますが、父も母もどちらでもかまわないと言ってくれるでしょう。特に母は、結婚は個人の繋がりの変化だと考えていますから、大切にはしますがこだわることはありません。先輩のご両親にご挨拶をと思ったのは、あのとき申し上げましたとおり、先輩ご自身があまり気が進まないといったご様子だったことと、お日取りを決めるのが困難だと思ったことによります。それに、プロポーズをしたのはわたしですから。結婚を申し込みましたと、それをお伝えする必要があると思いましたし」
 そこまで言って、弘はへにゃりと眉尻を下げた。
「ですが、それもこれもすべて先輩と綿密に話し合いをしてからでなければいけませんでしたね。申し訳ありません」
「……謝ってほしいわけじゃない」
「はい。責めるお気持ちがないのは、お顔を見ればわかります」
 やらなければいけないことは山積みだ。
 そして、それらはすべて重い。
「……柘植サン」
「はい」
「…………本当に、」
 ――俺と結婚するつもりなの?
 今さらな質問ではある。
 プロポーズされたあの日、あの言葉から感じたのは真実と信頼だった。目を逸らしたくなるほどの純粋さと、それさえできないやさしい引力だった。両親にも告げたのだ。八代に殴られておいて、殴られたことには態度にも出さず、ただプロポーズしたと、そのことだけを伝えていた。
 八代の秘密を知ってもなお、彼女は微塵(みじん)も揺らがなかった。
 弘を愛している人間はたくさんいる。
 弘も、愛し、大切にしている相手がたくさんいる。
 幸せでいるところを見ていたいという理由で結婚を申し込んできた彼女の手を、握り返していいのだろうか。弘はあのとき、幸福はセルフプロデュースするものだと笑って言った。だから、そこは自分で努力してくださいと。協力は惜しまないからと。
 ――そんな理由で。
 本当に彼女の手を握っていいのだろうか。
 弘には、もっと。
 弘なら、もっと。
 ほかの、誰かが。
 自分のような、後ろ暗いところしかない、頼りない人間ではなくて、誰かが。
 彼女の真実や純粋さをまっすぐに受け止め、信頼に応えられるような誰かが。
 きっと、いるはずなのだ。少なくないはずなのだ。
 遣る瀬無い。
 もどかしい。
 弘と一緒にいると、いつも心のどこかが必ず痛む。夢に見るほど。
 ――夢でも、想うほど。
「久我先輩。『I love you.』って、久我先輩はなんと訳されますか?」
「……なに?」
 妙なことを尋ねられて、思わず眉根が寄った。不機嫌になったわけではなく、意表を突かれすぎて一瞬思考が止まったのだ。
「……『月が綺麗ですね』」
「盗作はいけません」
「本歌取りって言ってほしいね」
 そっくりそのまま余すところなく使って完結させているのだから、本歌取りも何もない。
「柘植サンは、どうせ『幸せでいてください』でしょ」
「はい。どうしておわかりになったのですか?」
 わからない方がどうかしている。
「久我先輩はいかがですか?」
「思いつかない」
「考える素振りもないなんて、正直です」
「質問に質問で返すのは本意じゃないけど、柘植サンは? 『幸せでいてください』はなしで」
 ふっ、と弘の顔から表情が消えた。一瞬だけ。
 静かに目を伏せる。長い睫が、やわらかな頬に影を落とした。唇がほんのりと微笑む。
 知らなかった。
 伏し目の微笑は、とても儚い。
 胸の底に(さざなみ)が広がって、口を開きかけたとき、顔を上げた弘の眼差しと会った。(さや)かな瞳だ。いつ見ても。
「『あなたとなら、不幸になってもかまわない』」
 ずるい答えだ。
 そんなの、『幸せでいてください』と変わらない。言い方を変えているだけだ。『あなた』がいれば不幸でもいいなんて、不幸が成り立っていない。
「柘植サン」
「はい」
「本当に俺と結婚するつもりなの?」
「はい。先輩がわたしと結婚してくださるのでしたら」
「子ども、つくれないよ」
「それがすべてではありません」
「欲しくなったら?」
「話し合いましょう。手段は有限ですが、可能性は無限です」
 back  |  next



 index