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 手を伸ばした。
 すぐそこに弘の手はあって、いつもと変わらずあたたかい。白い(なめ)らかな肌だ。爪をぎりぎりまで短くしてあるから、もとのかたちと相まって、ほんの幼い子どもの手のように見える。
 箸より重いものを持ったことがないようなやわらかさだけれど、毎日キッチンに立ち、愛情をもって弁当をつくり、感謝しながら食器を洗っているのを知っている。
 土に(まみ)れて花の世話をするのも知っているし、重い鉢を持ち上げられるのも知っている。
 この細い小指に、戯れで自身の小指を絡めたことがあるのも、忘れたことなどなかった。
 約束なんかしないと言ったのは八代なのに、約束してほしいと思っているのも八代だ。
「俺なんか、面倒くさいだけだよ」
 自覚があるから言った。弘は八代に手を包まれたまま笑う。
「わたしの好きな方のこと、なんか、なんておっしゃらないでください」
「不幸になってもいいの?」
「かまいません。ですが、ただでは不幸になりません。大丈夫です」
「幸せになりたいって言わないんだね」
「幸福は常にセルフプロデュースするものです。ひとと一緒につくっていくものだとも思っていますが、だからといってどなたかに委託するつもりはありません」
 他に任せられるものではないのだ。弘は八代を守ることを、八代の幸福を、ただの一度も他人任せにしたことがない。彼女は本当に、誰にも委託していなかった。
「未来は、怖いですか」
「怖いよ」
 あの日、言えなかった。
 未来は怖いかと問われたとき、怖いと口にできなかった。景色が明るすぎたのだ。
 何故、今は言えるのだろう。
 あのときよりも、世界は鮮やかさを増したのに。
「薬指のサイズを教えてください」
 八代の手の中に収まっていた小さな手がそっと移動して、今度は八代の手を包む。やんわりと握られた。甘い温度だ。息苦しい。
「ねえ、柘植サン」
「はい。なんですか、久我先輩?」
 この遣り取りも、もう何度目になるのだろう。
「一回しか言わないから、よく聴いて」
「はい」
 ふつりと手を放す。弘の頬を、やさしく包む。彼女のやわらかさは花びらや若い芽と同じだから、(すさ)んだ心で乱暴に触れていいはずがない。壊してはいけない、壊れてほしくないものだ。
 ――この家では大切な話をするとき、相手から目を逸らしてはいけないことになってる。
 泣きそうなのに。苦しくて、噎せ返ってしまいそうなのに。
 それでも、目を見なければならないのだろう。
 これは、大切な話だから。
 大切な一言だから。
 生涯一度きりの言葉だから。
「俺と、結婚してください」
 声は不思議と揺れなかった。声を上げて泣きたいほどなのに、今にも泣きそうな気持ちなのに、涙は出ない。
 その代わりみたいに、弘の瞳が大きく揺れた。
 信じられないものを目の当たりにしたように刹那目を見開いて、それから一気に涙が溜まった。一瞬で(はじ)けたしゃぼん玉のようにぼろぼろ零れていく。
 蛍石(ほたるいし)みたいな滴だった。
「はい!」
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