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幸福論






 薄汚れた粗末な格好の男の子が、膝を抱え、背を丸くして座り込んでいる。こんなにも冷たく寒い場所なのに、着ているものは薄っぺらい。その上、汚れた裸足だった。
 八代(やしろ)()せ細った肩にてのひらを置いた。男の子が大きく身体を震わせる。
 痛がらせてしまわないように加減しながら腕を取り、顔を(のぞ)き込んだ。
 蒼白(あおじろ)い顔だ。
 唇は乾ききっていて、血の気が失せている。
 瞳の色が左右で異なっていた。
 泣きそうになっている。
 八代は子どもを抱いたことがない。だから、どこに手をやって、どのように力を入れればいいのか、見当もつかなかった。
 八代は細心の注意を払いながら、男の子をやさしく抱きしめた。
 男の子は、怖がっていて、痛がっていて、心細く思っていて、空腹で、寒がっていた。
 事実、彼の痩せた背中は冷たかった。
 荒れている髪を()でて、薄い背中を不器用にあやす。
 八代の腕の中で、男の子はぼろぼろと泣いた。
 声を上げて泣いた。
 怖かった、痛かったと八代に訴えた。
 ひとりぼっちで寂しかったと叫んだ。
 小さな手が背中に(すが)りついてきた。八代の肩に目もとを押しつけて泣く。涙がシャツに染みてくる。
 今まで、こんなにも泣けなかったのだ。
 今までずっと、こんなにも泣きたかったのだ。
 誰かに抱きしめてほしかった。
「もう大丈夫だよ」
 過去のことだ。
 なかったことにはできないけれど、記憶にすることはできる。現在までも(おびや)かす悪夢ではなく、ただの過ぎ去った時間として身体の中に落ち着けられる。
 想い出にするにはつらすぎるけれど、ぬくもりで包むことはできる。
 抱きしめて、どれほどの時間が経っただろう。
 幼い八代はやがて泣き止んで、今の八代から身体を離した。
 そっと指を伸ばす。
 ――大丈夫。
 大丈夫だ、怖くない。
 ――俺はもう、傷つけられても痛くない。
 涙でごわごわになった(ほほ)に触れる。
 やさしく引き寄せて、八代は幼い自分の左(まぶた)にキスをした。



 八代は起き上がりはしたものの、ベッドから下りないまま、手を握ったり開いたりした。
 てのひら。
 何かが戻ってきた、(ひろむ)に触れられた手だ。彼女が汚れもせず、壊れもしなかった、あたたかくやさしい手。
「ん、……んう」
 隣の弘がかすかな声を上げる。上掛けを引っ張り上げて、頭の上までかぶせてやった。彼女は寝入りばなこそ枕に頭を乗せているのだが、眠りが深くなるに従ってどんどん下がっていき、布団の中に顔半分どころか脳天までしっかり()かる。
「……」
 何か、大切な夢を見た気がする。
 ――大事っていうより、
 うまく表すことができない。
 何か、――何かに触れた気がする。
 夢が大切というよりは、夢の中で触れた何かが大切なもののような気がする。
 触れたもの自体は冷たかったのだけれど、てのひらに残っている夢の切れ端はあたたかい。
「……笑ってもらえた……みたいな……」
 誰かが笑ってくれた。
 八代が「笑っていてほしい」と思う相手といったら弘だ。でも、夢に出てきたのは彼女ではない。彼女のやわらかさや体温とはまったく異なる何かだった。けれど、八代はその誰かに笑ってほしいと思っていて、その誰かは(こた)えてくれた。
 あれは誰だったのだろう。
「……せんぱい……?」
 隣からあたたまった声が聞こえて、八代の思索は途切れた。弘がもぞもぞと顔を出す。
「ごめん。起こしたね。まだ寝てて大丈夫だよ」
「目が覚めちゃったのですか……」
 弘は枕に頭を乗せると、一度ふるりと首を振り、わずかに上体を起こした八代に焦点を合わせた。
「うん。柘植(つげ)サンは寝て。しっかり寝ないと起きられないでしょ? 睡眠邪魔したお詫びに責任持って起こすから」
 秋も半ばとなれば、夜明けは遠い。細く細く開けているカーテンの隙間から見える外は、まだ静かな闇色(やみいろ)だ。それでも深夜とは決定的に異なる色で、どこか遠くを見通せそうな。朝顔やなんかをもとにした色水に、空が(ひた)されているようだった。
 不思議なものだと思う。もっとも暗闇が強くなるのは夜明け前だというのに、見通せそうな気がするなんて。
 こんな時間に弘と会話するのははじめてだ。
 (はと)の羽毛みたいなグレーの陰影に沈む中で、無数の小さな羽虫の鳴き声のような静寂の中で弘を見るのははじめてだ。
 彼女は時間までしっかり寝るのが常だから、五時前なんて完全に寝こけている。
「先輩も、おやすみしましょう。まだ早いのでしょう? ……三時……? 四時くらいでしょうか……」
 あたたかい頬を指先でなぞったら、弘に手を捕まえられて、ぬくもっている手にやわく握られた。
「……こんな時間に起きたら、もう眠れないんだよ」
「よく目を覚ましてしまうのですか……」
 緩慢な動きで、弘の手が伸びてきた。八代の胸もとで数度空を切る。距離感を(つか)めていないらしい。少し近づいてやると、シャツの(えり)(つま)まれた。つんと引っ張られ、よくわからないまま身体を倒したら、きゅうっと胸に抱きしめられた。
「前はね。柘植サンと寝るようになってからなくなったよ。起きたのは久しぶり」
 眠りにある人間特有の、甘ったるい温度に身体が緩む。とはいえ、ほかの人間がどんなふうにぬくもるのかは知らない。ただ、八代が知る唯一の温度の持ち主は、いつだって甘くあたたまっている。
「怖い夢をご覧になったのですか……?」
 半ば眠りながらの声だ。やわらかい身体が心地よくて、八代は弘を驚かせないように注意しながら抱き寄せた。
「怖くはなかった。起きたら忘れたけど、いやな夢じゃなかったよ」
 誰かが笑ってくれた夢。
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