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「大事だった気がする」
 言葉尻がぼんやりとほどけた。
 眠りそう――なのだろうか。
 弘がかすかに笑う。
「でしたら、心の中の、ずっと底の、大切なところにきちんとしまわれていますよ」
「そう?」
「はい」
 胸に抱かれているから、声の響き方がじんとしている。呼吸に合わせて、弘の甘い身体がゆったりとふくらんだり収まったりする。
 拘束のやわい腕から少し離れて、ほんのりと(ほころ)んでいる唇に指先だけで触れた。かすかに動くたび、震えるようにして温度と声が指を遊ぶ。
「先輩を守ってくれますよ」
「柘植サンみたいに?」
 ――眠い。
 今眠ったら、寝坊しそうな気がする。どうしてもどうしてもと養父に口説き落とされて携帯するに至ったスマートフォンを引き寄せる。はじめてアラームをセットした。そうしないと起きられない気がしたのだ。
 答えてくれない弘を見ると、いつの間にか寝息を立てている。それがなんだかもどかしくて、すくい上げるようにして(あご)を上向かせ、(のど)もとにほんの少し()みつくようなキスをした。ん、と小さな声がくぐもる。
「かわい……」
 ――くっつくと安心するのが生きものですから、どうしても心細くなったときは、触ってくださってかまいませんからね。
 そう言って弘が許してくれたから、パジャマの中に少しだけ手を忍ばせた。指を(かす)めたキャミソールも通り越して、息づいている肌に直接触れる。あたたまったシェアバターの、八代の手に甘い肌。(なめ)らかな脇腹を撫でて、花びらみたいなやわらかさを指先で辿(たど)る。無駄はないけれど痩せぎすでもない。健康的な身体、肌というのはこういうもののことを言うのだろうと思う。
 出来心で、ふに、と()んでみた。
「んんん」
 くすぐったかったらしい。弘はちょっと難しい顔をして、うにうにと身を(よじ)った。笑いだしそうになる。それからまたふにふに摘んで、そのたびにうんうん(うな)ってうにうに逃げようとする(さま)に笑って、そうしているうちに、いつの間にか眠った。



 おはよう柘植サン、宇佐美(うさみ)サンに連絡して朝イチで温室に来てもらって。
 と起き抜け早々に八代に言われたので、弘はとりあえずメールをした。すぐに伊織(いおり)から折り返しの電話が来る。当然彼女は「いいけどなんで?」と()いてきたが、弘もわからない。
久我(くが)先輩が、朝一番に伊織ちゃんに会った方がいいって」
「……なにそれ?」
「さあ……?」
 まったくもって要領を得ない内容たったが、伊織は「どうせなんかあるんだろうから、いいよ行くよ」と諒解(りょうかい)してくれた。
「先輩、伊織ちゃんに何かご用がおありなのですか?」
「ないよ。俺はね」
「……? そう、ですか?」
「うん。はい、弁当」
「ありがとうございます」
 昼食用と早弁用の弁当箱を積み上げて、弘は(かばん)の中に丁寧にしまった。
「柘植サン、今日も一緒に寝てくれる?」
 話し合わなければならないことがたくさんあるのだ。
 来月になれば期末試験があって、私立大学出願がある。結婚を(あせ)るつもりはないけれど、実際のところ非常に微妙な位置にいるのが八代だから、決定はしておきたい。
 久我家には、八代の帰りを待つ者が少数ながら存在する。美文(よしふみ)がいるから八代が帰ってこないのだと思っている、浅はかで短絡的な者たちだ。
 彼らが何を求めているのか、知らないふりをすることができない。
 八代は能力的には非常に優秀なのだ。申し分ないといっていい。向き不向きはもちろんあるだろうが、それはやってみなければわからない部分が大半だし、――八代に帰ってきてほしいと思っている一部の人間からすれば、適性はそれほど求められていない。彼らが八代に求めているのは、高い能力と、反比例する脆弱(ぜいじゃく)(せい)だ。
 養父や弟に迷惑をかけたくなかった。
「もちろんです。連絡を入れておきますね」
「俺が入れる。最近お会いしてないし、ちゃんと挨拶(あいさつ)するよ」
 弘がくすっと笑った。
「いつもそうおっしゃるではありませんか」
 なんだかんだで連絡するのはいつも八代だった。近況報告もする。
「柘植サンだって、いつも『連絡しておきます』って言うでしょ。お互い様なんじゃないの?」
 やわらかいほっぺたをむにっと摘む。眼鏡がずれてしまいます、と言って弘は笑った。
「父も母も、先輩からのお電話を楽しみにしていますよ」
 ずれた眼鏡の位置を直してやる。弘はくすぐったそうな声で笑って、「ありがとうございます」と言った。



 花まつりはステファニー・グッテンベルクを出すことにした。寿生(としき)がうきうきしている。
「ちょうど開花がぴったり合いそうですね」
 嬉しそうに言いながら鉢を撫でる。
「鉢にりぼん巻いて出したいくらいですよ」
 本気の台詞(せりふ)だとわかるから、彼が(いだ)いている愛おしさが伝わってくる。弘は、好きってこういうことなんだろうなあと心があたたまった。リビングのミニバラ、弘の姉の美薔(みさ)も、(みやび)の誕生日とクリスマス、新年は毎年違うりぼんが巻かれる。雅がりぼんを選んで買ってきて、鉢に結ぶのだ。
「すっぴんでもじゅうぶんかわいいから大丈夫」
「やっぱりですか。ほんとにきれいだと化粧いりませんもんね」
田崎(たざき)くんはお化粧してる方、苦手なの?」
 寿生は鉢の(そば)(ひざ)をついたまま、隣の弘に親指を立てた。
「まさか。きれいにしてるのは無条件でいいことだと思ってます。毎日手間かけてるんですから、男は称賛しなきゃだめですよね」
 なんとも頼もしい女性の味方だ。楽しそうに笑う弘を見て、寿生も破顔する。
「やっほー来たよー」
 観音開きの扉が動く、ぎいという音のあと、からっと明るい声がした。
「あ、伊織ちゃんだ」
「? 宇佐美先輩? この時間にですか?」
 どう説明したものか迷った。八代に言われたから彼女に来てもらったわけだが、肝心の『何故』がわからないので、弘としても何をどう言おうかと考えてしまう。
「ちょっとお話? があって、……?」
 話、なのだろうか。
 寿生にわかるはずもなく、彼は「はあ」と返事のような返事でないような返事をした。こんな説明にもなっていない説明、反応に困るだろう。
 気をつけなきゃスカート引っかかっちゃう、という小声とともに、伊織が顔を出した。何故だか後ろには次子(つぎこ)もいる。
「伊織ちゃん、次ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
 立った寿生がきっちり頭を下げる。
「ああ、おはよう」
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