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 次子は軽く手をあげた。くちもとを手で覆って欠伸(あくび)を噛み殺す。伊織の電話に叩き起こされたのかもしれない。
 一方、間接的に八代の招集を受けた伊織はというと。
 おはよー、と言った笑顔が凍りついた。
 弘はわけがわからない。
「しんじられない」
 伊織はいやそうに(つぶや)くと、きょろきょろ周囲を(うかが)いはじめた。
 やはりわけがわからない。
 おはよう、と声をかけたときの笑みをまだ顔に残したまま、弘はぽけっと伊織の不審な挙動を見守る。何があったんだろうわたし何かしたのかなでも伊織ちゃんははっきり言うしとかなんとか考えていたら、ぎゅっと手を握られた。
「なあに?」
「そんな、ちびっこのおやつのおねだり聞くときみたいなのんきな受け答えしてる場合じゃないよ弘君。綾野(あやの)がブチ切れる」
「綾ちゃんが」
一色(いっしき)君も加わるかもね。ついてきて。一年生君、見張っといてくれる? 綾野と一色君が来たら困るの」
「はい。……はい?」
 伊織についていかないと綾野と鷹羽(たかは)がブチ切れるかもしれないらしい。弘は当然まだ何も把握できていないのだが、手を握る伊織の力がものすごく強い。弘の手はむぎゅっと思いきり握りしめられている。
 わからないなりに(うなず)いた。寿生も一応頷いてくれている。
 こういう場合、頷こうが頷くまいが伊織は聞かない。相手が頷くのを確認しないまま突き進む。今回も案の定、いつもどおりに彼女は温室の奥にずんずん進んでいった。慣れっこの弘はたいして疑問に思わない。凍りついた笑顔は気になるが、いつもの伊織だ。
「はい弘君こっち向いて。ちょっと上向いてくれる?」
 温室の最奥(さいおう)(すご)まれた。
「? 上」
「そう、上。そのまま待ってて」
 言われたとおりに上を向いた。
「次子鞄持って!」
「そうかりかりするな。気持ちはわかるよ」
 伊織の鞄を受け取った次子がなんともいえない声で言う。
「信じられない!」
「そうだな」
 ご立腹の血統書つきの猫が、毛を逆立てながら鞄を(あさ)る。ぽんとポーチを出した。
 伊織が何に対してどうして腹を立てているのかわからない弘は、何を言えるわけもない。ただ上を向いたままのポーズで静止していた。
 細い人差し指に、顎をちょいと突き上げられる。もう少し上を向けということらしい。おとなしく従う。
「んぁあんもう信じられないつけるならもっと下にすればいいのに! こんな上につけるとか綾野と一色君に喧嘩(けんか)売ってる」
「そこまで考えてないんじゃないか。つけたかったからつけただけとか、どうせそんなんだろ」
「もっと悪いよ! たぶんそうだけど! 柘植サンがかわいいのが悪いとか平気で言いそうだけど!」
 八代関連で腹を立てているらしい。
「わたし、今何をされてるの?」
「ちょっとした工作だ。平和のために付き合ってやってくれ」
 平和のためのちょっとした工作。
「……? はい」
 全然わからないが平和は大切だ。
 喉もとに、とんとんとやわらかいものが触れた。スポンジのような、でもスポンジにしてはやけに滑らかな触れ心地だ。
「弘君色白いからなあ。これで合うかな……どうがんばっても応急処置にしかならないんだけど。今日体育ある?」
「体育? ううん、ない」
「何より。今の季節じゃ流れるような汗はかかないだろうけど、心配は心配だしね」
「落ちるのか?」
「落ちないよ。ウォータープルーフだもん。……うん。よし。……まあいいかな、ねえ次子これわかる?」
 頬を包まれて首をもとに戻された。次子の正面に身体を向けられる。
「わからないな。あるとわかってて意識して見ればわからんでもないが、知らなきゃわからない」
「ならいいね。――弘君」
「はい」
 至近距離で、伊織が華やかに笑った。
「今日、部活お邪魔させてもらうね。やっしー先輩絶対来るから、逃がさないでよ」
「……? はい。じゃあ、待ってるね」
 こういうときの伊織は止まらないし、逆らったところで意味はない。
 知っているから、弘は従順に頷いた。



「やっしー先輩ッ」
「わぁっ」
 温室に入るなり声を上げたら、伊織に驚いた寿生が起き上がりこぼしみたいに跳ねた。
「一年生君、やっしー先輩は? 来てるでしょ?」
 メールを送った上で電話もしてやったのだ。腹立ちまぎれに三回かけたから、気づかなかったとは言わせない。
「久我先輩なら奥にいます。どうしたんですか?」
 朝はひとが来ないように見張れと言われ、今になったらなったで「来てるでしょ」と凄まれ、寿生は何も知らないものだから、伊織の勢いについていけない。
 伊織は(つや)やかなブルネットの長い髪を払った。緩く波打つ毛先がすらりと光る。
「見てわかんない? とッちめにきたの」
「とっちめ……」
「弘君は?」
「柘植先輩も奥にいますよ」
「んんんぅ厚顔無恥……!」
 お邪魔します、と言って伊織は奥に向かった。
 にこにこ嬉しそうな弘と、憎たらしくいつもと変わらない八代が、開花前の(つぼみ)をひとつひとつ確かめている。
 伊織に気づいたのは八代が先だった。
 目が合うと、ふっと笑う。
 悪戯(いたずら)を楽しむ意地悪な猫の顔だ。大変に腹が立つ。鷹羽にも綾野にも気づかれずに済んだが、伊織は一日ひやひやしていたのだ。
「伊織ちゃん。久我先輩とお話があるんだよね?」
 伊織に気づいた弘がのんびり笑う。知らぬが仏ってこれだなと思いながら、
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