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「ちょっとふたりにしてもらってもいい?」
 と訊いた。というよりも、有無を言わせぬ声を低く押しつけた。
 弘は不思議そうな顔をしたが、あっさりと承諾して、「何かご用があったら呼んでね」とほてほて歩いていった。田崎くん、と明るい声で呼びかけている。
 弘の声が遠ざかるのを待って、伊織は八代に噛みついた。
「信じらんないなに考えてんの! あんなしっかりつけて!」
「しっかりじゃないよ。三日くらいで消える。一週間残る程度じゃないとしっかりとは言わない」
 八代は平然としている。
「知らないよそんなルール!」
 小さかったけれど、伊織基準で見た感想としては、しっかりついていたのだ。弘は顔を洗ったときに気づかなかったのだろうか。
(あと)つけるの好きなんだよ。知ってるでしょ?」
「知らないよむしろなんで知ってると思うのよ? 予想と想像がつくだけよ!」
 八代は肩にかけていた鞄のポケットから小箱を出した。次子がぼりぼりやるようになってから、伊織もよく見るようになったものだ。
誤魔化(ごまか)してくれたんでしょ? 食べる?」
「食べない! 誤魔化すなんて当たり前でしょそんなの! それこそしっかりファンデで隠した。あたしが協力する前提で弘君にやらしーことするのやめてくれないかなあ」
 箱から一本、チョコレートが頭の先を覗かせる。八代は人差し指と中指で挟んでくちもとまで持っていった。食べながらしゃべることはしないものだから、なんだか煙草を揺らしているように見える。
「無防備に寝こける柘植サンが悪い」
 伊織はがりがりと髪をかき回す。
「忍者じゃないんだから普通のひとは寝てるとき無防備だよ」
「柘植サンがかわいいのが悪い」
「言うと思った」
「いやらしいことしてっていわんばかりの無防備さとかわいさ」
 腹が立つのも通り越すと(あき)れてしまう。伊織はいやそうな顔を保ったまま溜息(ためいき)をついた。
「突き抜けた馬鹿の妄想発言でしかないことに気づいてる? 大体、弘君の寝顔見てなんでやらしさと結びつくの? あれはただの」
「間抜けな寝顔」
 わかっているではないか。
「その間抜けにやらしーちょっかいかけるわけ?」
「うん」
 八代はいつものようにしれっと肯定した。
「もう……もうさぁ……」
 はあああ、と盛大な溜息が()れた。先ほどの溜息とは比べものにならない。
 伊織は(うつむ)いて(ひたい)を押さえた。
 こんな馬鹿馬鹿しい遣り取りが嬉しい。
「うん……まあでもよかったよ」
 (おもて)を上げて微笑むと、八代は正しく理解してくれた。
「心配かけたね。――有馬(ありま)サンと名瀬(なせ)サンにも伝えて」
 弘に触れられるようになった。
 唇はまだ遠いけれど、(たわむ)れることはできる。
「いちゃいちゃするのは大いに結構だしなんなら推奨するけど、弘君が起きてるとき同意のもとにしてよね」
 八代は小さく笑って、「善処するよ」と応えた。



 今年はステファニー・グッテンベルクを出すらしい。淡いピンクがかった、白にも見える丸っこい薔薇(ばら)だ。八代は白い花が好きなので、花まつりが楽しみになった。
婿(むこ)養子か」
 電話のむこうで養父が大きく吐息する。
「まだお願いすらしてませんけどね」
 ペンをくるくると(もてあそ)びながら応えた。
 どうしてもどうしてもで口説き落としてきただけあって、朋幸(ともゆき)は思いのほか気遣って電話をくれる。鬱陶(うっとう)しいと思わない自分がなんだかくすぐったい。特別によい気持ちがするわけではないけれど、悪感情も湧かなかった。
「美文のことを考えてか」
 朋幸の声が落ち込んだ。
「まったく関係ないとは言いません」
 美文を、――きれいな眼差しを持つ(ひか)えめな弟を哀しませたくないと思っているのは事実だ。三者面談の帰りがけに朋幸と話した内容は正直なものだったし、美文に現状を聞いたとき、彼に言ったことにも嘘はなかった。
 八代は久我家にとどまるつもりがない。
「俺は火種でしかないでしょう。前にも言いましたけど、相続や後継問題に巻き込まれて殺されるミステリー小説の第一被害者になるのは御免(ごめん)なんですよ」
「私がおまえを守ると言ってもか」
「関係ありません」
 答えがびっしりと書かれたノートをぱらぱらめくる。やる気になってやってみると、これがなかなかおもしろい。弘が言っていたことがわかる気がした。
 ――わからない部分は多い方が楽しいです。
「いつまでも守られてるわけにはいかないでしょう。あなただって不死なわけじゃないんですから、いつか死ぬ。ただ守られてる身では、あなたがいなくなったときどうなるか知れない。俺は自分がかわいいんですよ」
「……確かにそうだが死ぬなんて言わないでくれ、落ち込むだろう」
 本当にしょんぼりした声だったから笑ってしまった。
「すみません。……それに、言いましたよね。出るには出ますって。貫徹しますとも言いました」
「譲る気はないんだな」
「ありません。……もし婿養子の話をあちらに受け入れていただけたら、……それでも反対しますか」
 微笑の気配がした。
「反対などしない。おまえが幸せになれるのならばそれでいい」
「誰かさんと同じこと言わないでくださいよ」
「その誰かさんに早く会いたいものだな。……現実的なことを言うと、その方がいい面もある」
 殺されるのはもういやなのだ。
 善後策を講じず、すべてを諦めて、自分で自分の中を絶望で満たすのはもういやなのだ。
 身を守るために、八代はできることをやる。
 弘に笑っていてほしい。
「関係が切断されるわけではないから、おまえが言ったとおり、出ていったからといってすべてが解決するということはない。だが、養子縁組を選択することで避けられるトラブルはいくつかある」
「その『いくつか』のためだけじゃありませんからね」
「わかっているつもりだ」
 朋幸は本当に、八代と親子になろうとしてくれているのだ。
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