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「違います」
 逃げたいのではない。身を守りたいのだ。それは、取りも直さず弘を守ることでもある。
 弘はいつもどおり何も言わず、八代の隣に静かに座っている。雅がうふっと笑った。
「私もねえ、結構複雑な家庭で育ってきたの。家族構成もほかではちょっと見ない感じだと思うわ。八代君の詳細な事情はもちろんわからないけどね、かなり身近に迫ってる相続やら後継やらの問題」
「はい」
「で、八代君がいると、追々――っていってもたぶんそう遠くない未来に、お父様や弟さんがつらい思いをされるかもしれない」
「はい」
 逃げられないわよね、と雅が呟いた。
「私も、もしかしたら母方の祖母の家を継ぐことになってたかもしれない身なの。まあ色々あって流れたし、博さんと結婚したから完全に戦力外通告と相成ったわけだけど、もし私が男性で博さんが女性だったら、私きっと婿養子の選択してたわ」
 八代は適切と呼べる相槌(あいづち)が浮かんでこなかった。なんだか、自分の置かれている環境と状況より、雅がかつて置かれていたそれらの方が複雑そうだ。
「逃げてるっていうのとは違うのよ。火種を見つけたら火事が起こらないように始末するでしょう。自分が火種だとわかってて家を燃やしたくないなら距離を置くのは当然の行為だし、ただの選択なの」
 ――俺は火種でしかないでしょう。
「誰にも何も言わずに姿を消すのは逃避と言われても仕方ないけど、家族と真っ向から向き合った上でその答えを出したんなら、それは意志であり選択で、今できる限りの責任を果たしてるのよ。きみはできることやしなければいけないことをちゃんとやってる。もちろん未成年だから足りない部分はどうしたって出てくるけど、それは時間と解決していくしかないことだからね」
「必ずしも逃避が悪いことだとは限らないしね。心身を損なわれそうになったら、脱兎(だっと)のごとく駆け出すのが生きていくこつ」
 博が茶巾絞りに菓子きりを滑り込ませた。うんそうなの、と雅が応える。
「三十六計なんとやらっていうでしょう。逃避っていうより戦略的撤退よね」
 雅が姿勢を正して(えり)をきゅっと(しご)いた。半衿の位置を指で確かめて整える。そして、やわらかく微笑んだ。
「日取りを決めましょう。ご多忙な方のようだから、私たちが全面的に合わせます」



 いただきます、と手を合わせた。
 向かいであんぱんをもそもそ食べている祐介(ゆうすけ)の元気が三割減。
「やばい」
「へえ」
 中間試験の結果が思わしくなかったらしい。
 (うら)めしげに(にら)み上げられた。
「くそう、これだから頭のいいやつは……俺の気持ちなんてわかんないだろ」
「わからないね。そんなに落ち込んでるなら」
 卵焼き一切れあげようか。
 ――と、八代にしてはかなり親切なことを言おうと思ったのだが、
「そういや久我、おまえ最近すっきりした顔してるよな」
 (やぶ)から棒もいいところの台詞だ。
「二学期はじまってすぐの頃とかひどかったけど」
 それはそうだろう、ひどすぎる状態にあったのだから、顔だって死ぬ。
 ――ほんとに誤魔化すの下手になったんだなあ。
 今まで一体どのようにして誤魔化してきたのやら、精神状態がひどかった期間の方が長いのに、こんなことを言ってくる人物は誰ひとりとしていなかった。
 ――ひどいのが当たり前だったから誰も気づかなかったのか。
 嘘をつくのが下手になって、誤魔化すのが下手になって、つくり笑いが出てこなくなった代わりに、本当に笑うことが多くなった。そういった八代と、過去の八代との間に差や違和感を覚えないのかと不安になったけれど、単純に声をかけやすくなっただけなのかもしれない。上澄みで折り合うことしかできなかった八代は、周囲にとっても確かに少し異質な存在ではあったのだ。
 変化は緩やかだった。
 それだけのことなのだろう。
 八代が突然変わってしまったと思っていただけで、外から見れば、ゆっくりとしたものだった。
 竹下(たけした)教諭が言っていた「顔が違う」は、いきなり手に入れたものではなかったのだ。
「あ。もしかして――」
 祐介が肩をぎゅっと(すく)めて前(かが)みになった。
「柘植ちゃんとやったとか」
「……言葉は選んだ方がいいよ」
「ごめんなさい。そんな怖い顔するなよぉ」
「もう卵焼きあげない」
「えっほんとごめん。ちょうだい」
 あんぱんを皿のようにして出してきたから、落ちないように中心に乗せてやった。祐介の顔が(ほころ)ぶ。
「わぁい。ありがとー美味いんだよなぁ」
「柘植サン直伝(じきでん)の卵焼きなんだから、おいしいのは当たり前」
「ああはいはいごちそうさまですよ」
 晴天に恵まれた三日間の花まつり、ステファニー・グッテンベルクは残念ながら受賞ならなかった。寿生は「(はなむけ)にしたかったのにできませんでした、すみません」と言ってくれたけれど、八代は満足だった。とてもきれいに咲いていたのだ。可憐(かれん)で、かわいらしく、優雅だった。生き生きしていて、ふたりの後輩が丁寧に育ててくれていたのだとよくわかった。
 だから、不満なんて何もない。
 今年も文化祭は美術部とのコラボレーションだった。例の百号キャンバスに選ばれた生徒の名はもう覚えていない。一年生の顔などひとりも知らないし、興味もないから記憶に残らなかったのだ。温室の最奥を占有した一枚は、強烈な青で(まぶ)しい海が描かれていた。
 次子の『はつ恋』はあまりにもやさしい青空だった。対称的な作品だから、次子の空を覚えている者の目には新鮮に映っただろう。
 彼女がずっと『はつ恋』の空の想いを抱いて、大切にしているのだと、誰か気づいた者はいただろうか。
 日取りは十一月第一日曜に決まった。
 朋幸はどれほどの労力を()いて時間を空けてくれたのだろうか。こんなにいきなりのことなのに、よくも日にちを取れたものだと思う。
 もしかしたら、きちんと見越してあらかじめ調整してくれていたのかもしれない。
 彼は一言もそういったことを漏らさなかったけれど、考えすら及ばないほど八代も幼くはない。



 待ち合わせた朋幸は、明らかに新しいスーツを着ていた。
「……」
「八代、覚えておきなさい」
 養父は、自信に満ちた父親の顔で微笑んだ。
「スーツは買うものではなく、(あつら)えるものだ」
 力が抜けた。ふっと笑う。
「覚えておきます」
「はじめてのスーツは私に誂えさせてほしい。卒業したらテーラーのもとへ行こう」
 養父に誂えてもらったスーツを着て並ぶ日が来るのだろうか。
 今までだったら、きっと「果てしない」と思っていた。想像できない、と思っただろう。
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