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 それがない。
 ああそうなるだろうなと。並ぶのだろうなと。
 夢みたいだ。
 夢見たこともなかったほどの、信じられない夢みたいだ。
 周囲の何もかもが新しい気がする。
 冷たい初冬の晴れた日、柘植家の――というより、雅を見て、八代はひっそり息を飲んだ。
 戦闘モードの雅の(たたず)まいは(すさ)まじかった。柘植家でコンビニ限定アイスに喜び、風呂上がりにジョッキいっぱいの水を二杯飲んで、朝は寝起き悪くふにゃふにゃしている人物だとは思えない。
 梅茶(うめちゃ)のきものだった。紋が入っている。帯は白い。
 博ももちろん場にふさわしい格好をしているのだけれど、雅の存在感が控えめなのに圧倒的だった。気圧(けお)されてしまうほどなのに、夫と並ぶとちょうどよく収まる。どちらが強いということがない。博と雅はそういうつり合いの取り方をしているのだ。
 八代も弘も制服だった。これ以上を思いつかなかったのだ。結局、学生なのだから、で落ち着いた。
 雅の礼の仕方、(そろ)えられた白い指先、博の穏やかな声とあたたかい視線に守られている弘は、(りん)と静かに強かった。
 彼女は、いつもと変わらないやさしい声音で、礼儀正しく朋幸と美文に挨拶をした。
「八代さんを迎えさせてください」
 弘はものすごくシンプルに申し入れた。話し合ったわけではないから、八代もはじめて聴く言葉だった。
 たぶん、悩んで悩んで、悩み抜いて選んだ一言だろう。
 正しいのかどうかはわからない。もしかしたら、無礼に当たるのかもしれない。それでも彼女の精一杯の言葉だ。
 博や雅の挨拶は美しかった。
 それに比べれば確かに幼い。
 けれど、純粋だった。
「どうか、八代をよろしくお願いいたします」
 博や雅、弘の申し込みを受けた朋幸が頭を下げた。
 彼の言葉が、愛情からというよりも罪悪感から来ていることを、八代はわかっている。養父も苦しんだのだ。
「八代を受け入れてやってください」
「なに、その言い草。やめて」
 このような場面でこのような物言い、ふさわしくないことはわかっている。でも、今言わなければ一生言えないままだ。そして、一生引きずらなければならない。
 説教ならいくらでも聴く覚悟だ。その程度、これまでのことと比べればどうということもない。
 だから、怖がらなくていい。
 八代はもう、傷がついても生きていける身体なのだから。
 凍りついた朋幸に一瞥(いちべつ)をくれ、八代はわざと溜息をついてみせた。
「俺がこれまで受け入れられてなかったみたいな言い方やめてよ。こんなところで傍若無人に振る舞うくらい、我儘(わがまま)放題させてもらった程度には受け入れられてきてる」
 朋幸の瞳が揺れた。
 このひとも(なが)い間傷つき続けてきたのだ。どれほどの眠れない夜を過ごしたのだろう。
 その眠れない夜を共有していたら、自分はどう育っていたのだろうか。
「自分の息子が、こんなにやさしいご家族に迎え入れていただけるんだから、誇ってよ。迎え入れていただける人間に育てたのは、」
 心は不思議に静まっていた。
 まるで、今までずっとそう呼んできたかのように、それは当然の顔をして(こぼ)れ出た。
「父さんでしょ」
 朋幸が目もとを覆った。
 失礼、と詫びる彼に、柘植家のひとびとは微笑で応えた。俯くこともできないでいる美文のきれいな黒い瞳が、明るい冬の()の光を受けて潤んでいた。



 柘植家のひとびとと別れたあと、朋幸は何故か車にこもり、ハンドルに額を押しつけて泣いた。
「なんで巻き添えにするんですか」
 こういうときってひとりで泣くものなんじゃないだろうか。
「ひとりで泣くのは寂しいんですよ」
 美文が情けない顔で助け船を出す。八代は嬉しい反面呆れた。
「俺は一体いつになったら帰れるんですか。もう電車で帰ろうかな」
「待ってくれ、色々話したい」
「この期に及んで何を話すんです……」
 八代としてはもう何もない。実際のところ、わずかどころでない羞恥(しゅうち)(しん)があった。
 父さん、なんて。
 そんなふうに呼ぶ日が来るなんて思わなかった。後悔したくないと思ってはじめて口にした呼称なのに、信じられないくらい当たり前だったのだ。今までどう呼びかけていたのだろう。そもそも、呼びかけたことがあっただろうか。
 隣に座った美文が穏やかに微笑む。
「素敵な女性ですね」
 今回は返答に困らない。
「でしょ。……横恋慕しそう?」
 美文は楽しそうに、やはり控えめな笑い声を立てた。
「しないように気をつけます。お兄さんと仲の良い兄弟になりたいので」
「仲の良い兄弟になりたい? 仲の良い兄弟でいたい、じゃなくて?」
 隣の弟の目を覗き込む。美文はゆっくりと目を見開いた。驚き方も控えめなのだ。
「……仲が良いと、……思ってもいいですか」
 八代は笑った。
「うん。今まであんまり会ってなかっただけ。……よく出来たかわいい弟だよ」
 美文まで泣きだした。
 涙もろいのは遺伝なのかなと思う。
 ――八代もたくさん泣いたから。
 だからやはり遺伝なのかもしれない。
 親子だから、兄弟だから、似てしまう。



「ねえ、柘植サン」
 八代の眼鏡を()いてチェストの上に置き、今は自分の眼鏡の手入れをしている弘の背中に呼びかけた。
「はい。なんですか、く……」
 にこやかにふり向きかけた鳶色(とびいろ)の瞳が一瞬止まって、ぎゅっと口を(つぐ)んだのがわかった。ばつの悪そうな顔をして、身体は八代に向けたまま、眼鏡をこんと置く。
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