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 今さらのようだけれど、といったふうに両手でくちもとを隠した。ほんの少しだけ。
「なんですか、……先輩?」
 控えめに言い直してきた。そろろっと上目遣いで。悪戯を見つかった子どもが叱られるのを待機している仕草だ。間抜けでかわいくて笑ってしまう。
「惜しい」
 弘の両手をやさしくどかして、華奢(きゃしゃ)な顎を軽くすくい上げた。こつん、と額を合わせる。
「久我って呼んだら、お仕置きっていう名目で色々してもらおうと思ったのに」
 焦点を結べるか否かの至近距離で、弘がきょとんとする。それから、わかっているのかいないのか、楽しそうな笑い声を零した。
「セーフですか?」
「ギリギリね」
「ありがとうございます。何をしてほしかったのですか?」
「…………」
 弘相手だと言いにくい。色々ありすぎるのも理由のひとつだけれど、ほかの理由としては言葉の選択に困るというものがある。だってたぶん理解してくれない。実地も悪くないとは思うけれど、弘が本気で泣いてしまうのだとしたらさせたくないし、言いたくない。困らせるのは好きだが畑が全然違う。それに、して困らせるのと、させて泣かせるのでは恐ろしいまでの差がある。
「……キスして」
「はい」
 感情を持て余して、弘の耳朶(みみたぶ)を指先で弄びながら(ささや)くように言った。弘はいつもと変わらず快く頷いてくれて、頬に、ちゅ、と小さなキスをくれる。
「柘植サンのキスっていっつもかわいいね」
 思わずくすりと微笑が漏れた。
「? そうですか?」
 うん、と肯定して、小さな身体をそっと引き倒した。既に睡眠モードに切り替わってしまっているらしいぬくもった身体が、ぽふんと転がってくる。不思議そうに見上げてくる瞳を閉じさせて瞼にキスをして、髪に指を入れて()いた。
 弘の少し癖のあるやわらかな髪が、八代の指をくすぐる。
「俺としては、他人様(ひとさま)には見せられないようなキスもしてほしいんだけどね……」
 そう思うのに、小鳥の羽根のような触れられ方で満足できるのだから不思議だ。他人様には見せられないようなキスなんて、いつになるだろう。
 八代は未だに弘の唇に触れられずにいるのに。
「今日はお疲れ様」
 細い身体を引き寄せて上掛けをかけてやる。相も変わらず律義(りちぎ)に礼を述べたあと、弘はかすかな息をついた。それから、くすっと笑う。
「先輩だって……お疲れ様です。素敵なお父さまと弟さんですね」
「ふたりとも涙もろいよ」
「よく似ていらっしゃるのですね」
「柘植サン、正直は時々身を(ほろ)ぼすからね」
 やさしく頬をつねったら、「申し訳ありません」と笑われた。
「お食事が楽しみですね」
「いつになるんだか……」
 今日にしたって、朋幸はかなりの無理をしてくれたことは想像に難くない。近い日にまた休みを取るのは難しいだろう。
「結納もありますよ」
「省略していいよ」
 そういうわけにはいかないのはわかっている。
 八代は深く息をついた。
「とりあえずやることひとつ片付いた……」
「ほっとなさいましたか?」
「うん。もうほんとどうしようと思ってたから、……よかった……」
 安堵(あんど)の一言は吐息にほどけた。
 朋幸や美文の涙が脳裏を(よぎ)る。あたたかい想い出だ。あと何年したら、笑い話として口にすることができるようになるだろう。
「今日はお会いできませんでしたけれど、お食事のときはお母さまのお席もご用意いたしますからね」
「そういうのってどうやるの?」
「お写真をお持ちください」
 わかった、と呟くように言って、八代は弘を抱き寄せた。薄い肩口に額をつける。細い指に髪を撫でられて、気持ちがよくて眠たくなってきた。
「先輩、もうすぐ卒業ですね……」
 不意にそんなことを言われて、八代はふと顔を上げた。
 もう十一月になるのだ。卒業式は三月一日だから、四ヶ月ほどしか残っていない。しかも、センター試験後は自主登校になる。
「寂しい?」
「はい」
 あっさり肯定された。
「門出ですものね……お祝い事だとわかってはいるのですけれど」
「家で会えるのに」
 (あま)邪鬼(じゃく)なことを言ってみた。事実、家でも会えるのだ。でもなんだか寂しい。形容の難しい(へだ)たり。
 ――学校はひとつの世界だから。
 内側にいるものと外側へ出たもの、二者は途切れはしなくても同じ世界にいるわけではない。
 社会と比較したとき、学校の人員の入れ替えは驚くほど緩やかで、ささやかだ。だからこそ、なんらかの強い結びつきを持つ人間がいると、別離をひどく意識する。
 弘は八代の言葉に、そうですねと微苦笑で応じた。
「ただ、学校でお会いできないのだあと思うと……温室でお会いすることもなくなるのだと思うと、少し……卒業式で泣いてしまっても、笑わないでくださいね」
「……いちいちかわいいこと言うなあ……」
 濃い茶の前髪をかき上げて、額にキスを落とした。
「浮気しないでよ」
 ふくふくした頬をてのひらで包んで、指で撫でながら言った。弘が浮気なんてするはずがないとわかりきっているから、八代は()ねているみたいな口調になってしまう。
 弘はあたたかく笑った。
「しませんよ」
「……柘植サンは、俺に言ってくれないの? 浮気するなって」
 撫でていた頬を、軽く摘んでやった。不公平な気がする。弘なんかきっと何もわかっていないのに、何も知らないくせに、好きなように八代をふり回す。
「言いませんよ」
 弘は穏やかに微笑んだままだ。頬を摘んでむにむにしている八代の手に、彼女の手が添う。もう片方の手が頬に伸びてきた。
 細い指先が曲線をなぞるようにやさしく辿り、ふ、と一瞬だけ八代の唇を掠めた。
「浮気したいっていう気持ちも起こらないくらい、毎日大好きですって言って、いっぱい大切にしますから」
「……窒息しそう」
 パートナーが空気のようだとか言いはじめたのはどこの誰なのだろう。空気の有難みを完全に忘却しているとしか思えない。人間、水がなければ二週間で死ぬ。空気に至っては二時間ももたない。それとも――
 ――あなたがいなければ呼吸すらもままならない、という(おぼ)れ方だろうか。
 それなら異論ない。溺れたら呼吸できないし、そうしたら必然的に何を置いても空気は必要だと帰結する。
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