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「ご迷惑ですか?」
 悪戯に唇に触れて、すぐに離れた指を捕まえる。あんなことを言いながら触れてきたくせに素っ気なく通り過ぎていくなんて、八代からすれば()らされているとしか思えない。
「そういう意地悪言わないで。仕返ししたくなるから。俺の意地悪、柘植サンのみたいにかわいいものじゃないからね」
 捕らえた指先にくちづけて、けれどそれだけではなんだか物足りなくて、微笑んでいる弘が小憎らしくて、小さく甘噛みした。弘はくすぐったそうに笑って、にゃんこさんみたいですね、と自身の指を捕まえている甘えん坊の猫の手に、キスを贈った。



 図書館の最奥、カウンターからは死角になっているスペース。
 さすがに今の時期になれば誰かいるだろうと思っていたのに、座っていたのは綾野だけだった。まるで彼女の書斎のようだ。誰も座りにこないのだろうか。
「お疲れ様」
 八代が向かいに座るのを待っていたかのように、綾野は突然言った。棒読みの発音だが、冷たさはない。
「挨拶したって聞いた」
 かたちのよい手もとで、ノートが一ページ進む。
「……うん」
 色々とあるから。
 八代は決定していなければならない。
 差し迫っているものがあるからこその特急だったことは事実だ。八代の蝋燭は中途半端な距離を置いて、けれど決定的に遠ざかることはなく存在している。
 でも、それらは彼女たちには言わなくてもいいことだ。彼女たちにとって大切なのは、八代の家庭の事情ではない。
「少し安心した」
「なにか不安だったの」
「……弘が嘘ついたこと知ってるのよね」
 八代もノート問題集一式を机に広げる。
「知ってる。本人に直接聞いたわけじゃないけどね」
「ニュースソースが誰かなんて訊かない。……弘、嘘つきとおすみたい」
 シャープペンシルをノックする。
 かちかち。
「伊織には下手な嘘つかないでって言われてたし、あたしは、嘘の内容を言わないなら謝らないでって言った」
「柘植サン、その下手な嘘、下手なりにほんとのことにする気なの」
「そう」
「俺に腹立ててる? 柘植サンに嘘つかせたって」
 綾野が顔を上げた。
 切れ長の目もとが涼しい美少女だ。伊織が髪にドレスに宝石を飾って観客を沸かせる華の踊り子なら、綾野は薄暗いほどの屋敷の奥にひっそりと()けられている一輪の水仙、(ある)いは視線を転じた先の真昼の暗闇に浮き上がった白い紫陽花(あじさい)だった。綾野の美しさはそんな、白と黒の境目など一切ないような(いさぎよ)さと、ひとびとに忘れ去られているような寂しさがある。
 まっすぐに切り揃えられた前髪、背中に黒々と流れる長い髪が人形のようだ。白い肌は無機質で、表情に(とぼ)しいからなおのこと生身のにおいが感じられない。
 けれど、八代は知っている。
 彼女は、微笑むととてもきれいなのだ。
 日本人形のような無機的な美しさではなく、年頃の少女らしいやわらかさが出る。
 ふっくらとかたちのいい唇が(べに)を引いたようにきれいに色づいているから、人間だとわかる。注意して見てみると頬の曲線に少しの未熟さが残っていることに気づいて、うっすらと桜色で、少女らしさがあることにも気づく。
 綾野がきれいなだけで冷たいお人形でしかなかったのを、やわらかな微笑が美しい少女に変えたのは弘だ。
「怒ってなんかない。嘘ついたのは弘の勝手よ」
「冷静だね」
取柄(とりえ)なの。あんたが何も動かなかったら腹立ててたと思うし、恨んでたかもしれないけど」
 綾野は少し寂しげな微笑を零した。
「そうじゃなかったから、腹立てる要素がないのよ」
 綾野にとって、恋は、叶わなくても大切にしまっておくものなのだという。諦めるのとは違う。ただ大切に、胸の奥の小箱にしまっておく。
 彼女の胸の奥にある小箱は、何色をしているのだろう。もしも赤いのだとしたら、八代には中に何が入っているのかがわかってしまう。
「二学期に入って――そんなに経ってなかったときのことなんだけど、弘に、わたしは神様に見えるかって訊かれたの。そういうことがあったっていう話は誰かから聞いた?」
「何も」
「そう」
 綾野の視線がまたノートに落ちる。
「なんて答えたの」
「伊織が――神様になんか見えない、弘はありふれてるって、……きれいに嘘ついてくれた」
 花の(かんばせ)に浮かべた伊織の微笑を想像するのは容易(たやす)かった。あの可憐な唇で、彼女は弘とは比較できないほどの技量で美しく偽ったのだ。
 神様に見えるのだ。
 綾野と伊織の目には、弘は神様みたいに映っている。
 鷹羽と次子はどうだろう。
 なんにせよ、八代からすれば通り過ぎた過去だった。
「柘植サンに泣かれたよ。先輩はわたしを神様にしてる、わたしは神様じゃないって泣きながら訴えられた」
「……そう」
「ねえ、名瀬サン」
「なに」
 内側に空が広がっていた卵。
 一羽の鳥と、アプラクサス。
「俺って、支配者に見える?」
 次子の顔が忘れられない。彼女は、まるで親しい者の亡骸(なきがら)を見るような顔で言ったのだ。
 ――見える。
「悪いけど、質問の意図がわからない。唐突すぎるのよ。支配者っていう言葉はどこから来たの」
 確かに唐突すぎる。
「『デミアン』って読んだことある?」
「ない。……そういえば次子が読んでた……ような気がする、けど。関係あるの?」
「大いにある」
 八代は次子にした話をかい摘んで説明した。綾野は相槌すら打たずに黙って聞いていたが、八代が話し終わると、
「支配者って、つまり神様ってことよね」
 と確認を取ってきた。
「文脈から行けばそうなるね」
「不完全だけど、不完全なりに――不完全な世界の神様で、支配者なのよね?」
「そう――だと思う」
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