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 弘は完璧ではなかった。
 けれど、完全なのではないか。
 彼女は完結してしまっているように思う。
 ――何が?
 何がどう完結しているというのだろう。
「で、俺は支配者に見える?」
「見えない」
 間髪入れずに疑いようもなく即答された。
 乱麻を立つ潔さだった。
「あんたはいつから神様だったの」
「ちょっとニュアンスが違うんだよ。――俺は、支配しかしない」
「そう。でも、どっちにしろ見えない。支配者でも神様でもない」
「言い切ってくれるね」
「明白なことだからよ」
「根拠は」
 綾野の瞳にさらされた。
 黒真珠みたいな双眸(そうぼう)だ。色が濃くて深い。思考の(ふち)に、ちらりと雅の黒曜石(こくようせき)が浮かんだ。
「弘を支配してないから」
 甘い体温の、やわらかいひと。
 愛おしくて、恋しくて、八代は深く吐息した。
「できるわけない」
 思い出すだけで泣いてしまいそうになる。弘はどうしてだかいつも懐かしい。
「だから支配者じゃないわ」
 綾野はふいと視線を()らした。無関心にも見える仕草だけれど、きちんと向き合って話してくれていることがひらひらと伝わってくる。
「有馬サンには支配者に見えるって言われたけどね」
「そうあってほしいのよ」
 とてもわかりやすいから。
「あんたが弘といられるようになった理由が少しわかった」
「なに」
「弘もあんたといられるのよね」
「みたいだね」
 綾野が俯いた。
 机からわずかに距離を取る。
 ぽたり、と。
 涙が落ちた。
「あんたたち、もう、お互いに神様でも支配者でもないのよ。――弘を神様じゃなく見られてるの、たぶんあんたしかいない」
 ――わたし、ただの女の子です。
 あの言葉は、綾野たちにとっては遠いのか。
 信じられないことなのか。
 信じたくないことなのか。
 みながみな、縛られていることなのか。
「名瀬サンたちのそういうの、恋っていうんじゃないの」
 恋はひとりに捧げるもので、愛は万人に注ぐものだ。
 弘は綾野たちを愛している。けれど、恋はしていない。
 ただ、それをいうのなら、八代だって変わらない。弘に恋をしている実感は、今になっても持てないでいる。そして、弘は弘で恋がわからないと言った。
 恋はとても不明瞭で不安定で、掴みどころがない。
「そんな残酷なこと言わないで」
 嘆くように言われて、八代は短く謝った。
 八代が弘とともに得た本物の真実は、もしかしたら、どんな言葉をどれほど尽くしても足りないくらいに尊いことなのかもしれない。
 眠る前に額や左瞼にキスをもらっても、八代はもう弘を神様だとは思わない。愛おしいひとであるというだけだ。
 八代の世界はまだ壊れてはいないし、影に沈んでいるけれど、その影の持ち主は弘とは別の誰かなのではないかと思いはじめている。
 自分は誰の足もとにいるのだろう。
 神様の影はいつも怖い。
 一方で、怖がる必要がないこともわかっていた。自覚できていなかっただけなのだ。
 弘は神様ではなくて、八代も支配者ではない。
 ならば、八代を脅かすものは、もうどこにもいない。



 私立大学の出願をした夜に、朋幸から電話があった。心配はしていないが心配はある、無理しないように、という、つまり心配しているのだという内容だった。
「なんとかスケジュールを調整する。もう少し待ってもらえるだろうか。なるべく早くとは思っているのだが、なかなかうまくいかないものだな」
「そうでしょうね」
 挨拶の日をあれほどすぐに取れたこと自体が奇跡なのだ。
「結納もあることだし、なんとか……」
「省略したらだめですか」
「さすがにそういうわけにはいかないだろう。何をどう言ってもおまえは長男だぞ」
「次男だったら」
「次男でもだめだ」
 どう足掻(あが)いても駄目なのではないか。
「指輪や式はどうするつもりだ?」
 気のせいだろうか。たぶん気のせいじゃない。
 朋幸はうきうきしている。
「指輪はともかく式を挙げる予定はありませんね」
「ウェディングドレス姿を見たくはないのか」
「見たいんですね、あなた……父さんが」
 こほっと小さな咳払いが聞こえた。図星か。ついでに、父さん、と呼ばれたのが嬉しかったのだ。意外に単純というか、わかりやすいというか、素直だ。
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