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 弘はぱちぱち瞬きをして、頬を染めてはにかんだ。
「ひみつです」
 言ってくれなきゃ叶えようがないよと思ったのだが、弘の笑顔があまりにも嬉しそうだから、かえって訊けなかった。
 彼女にとってはただの憧れであり、淡い夢のようなものなのだ。本当に手に入れたいと思っているわけではない。
 言われなくても伝わってきてしまったから、八代は問い詰めることはしなかった。けれど、心の(すみ)にはそっと引っかかった。
 ――花冠。



 冬休みの温室の管理は、もちろん園芸部の仕事であることに変わりはないものの、盆休みと同じく一休みできる。なんやかやと顔を出していた去年までがもう懐かしい。たかだか三年間、部活に割いた夏休みと冬休みは二回しかないのに、長い間そうしていた気がする。
 風は針のようだった。朝から少し(くも)っていて、気温が低い。
 過去問題や予想問題と着替えを入れた鞄を持った八代は、丁寧に包んだスコーンをエコバッグに入れて両手に提げた弘を支えていた。バスが揺れるたびに転げていきそうになるものだから油断できない。
 昼過ぎだからそれほど乗客はいないだろうと踏んでいたのに、意外にもバスは繁盛していた。学生と思しき姿が目立つ。
 見下ろしたら弘のつむじがあった。
 どうにも我慢できずに、つついてしまった。びっくりした弘が見上げてくる。大きな瞳にめいっぱいクエスチョンマークが飛んでいた。
 笑ってしまった。
 つむじを擦って守る弘が頬を染めて、まったく迫力なくむうっと視線で責めてくる。このようなところで突然何をなさるのですか、という顔だ。
 ほっぺたをつつきたい衝動は(こら)えた。
 彼女の中で何がどう特別なのかは知らないが、弘はバスの停車ボタンを押したがる。聴けば伊織も押したがるのだそうで、妹がふたりいる次子に言わせると、「ちっさい頃にあんまりバスに乗ってこなかったやつは押したがるよ」とのことだった。嘘か本当かは謎に包まれている。
「寒いですね」
 バスから降りた途端、強い風にびしっと打たれた。
「寒いと眠くなる……」
「死んでしまいますよ。眠るのはベッドに入ってからです」
 首もとが緩んでいる弘のマフラーを直してやる。きゅっと締めると、弘は笑顔になった。ありがとうございます、と嬉しそうに言う。
 こんな顔と「ありがとうございます」の一言のためだけに、なんでもできそうになるのだから、自分も大概単純だ。弘が望むことすべて叶えたくなる。
「甘やかしたい」
「? なんのお話ですか?」
「俺の性癖の話」
「……? はあ。そう、なのですか? 性癖」
 そう性癖、と繰り返して、八代はすたすた歩きだした。気を抜いたら本当にめちゃくちゃ甘やかしそうな自分が実にリアルだ。自分は甘えたいタイプであって甘えてほしいわけではないのではと思っていたのだが、そういえば八代は弘の世話を焼くのが楽しい。甘えてほしいとも思っている。実際そう言った。
 彼女がなかなかゴロゴロ喉を鳴らしてくれないからなんとなく過ぎているだけで、カーディガンの袖を折り返してやる程度のちょっとしたことでさえ嬉しいのだ。だから、
「ふふっ」
 控えめな指にそっと触れられて、手を繋ぎたいとねだられると、どうしようもない気持ちになってしまう。
 視界に入る道にひとがひとりでもいれば、弘はそれをしない。そんなわけだから、余計にふたりきりなのだと意識してしまって――
 ――八代の心は、とろけそうなほど甘くなる。
「式は挙げなくても、指輪は用意するよ」
 婿養子に行くにせよ、立場的には挙式を避けるのは難しいことなのかもしれなかったが、交渉次第という気もする。
「合格が発表されたら見にいきますか?」
「落ちてたらどうするの?」
「ご予定がおありなのですか?」
「まさか。合格しかしないよ」
 ふふっと笑った弘に、手をきゅっと握られた。
 成春(しげはる)の顔を見ていない。弘との間に恐怖があった期間中も『G*G*』を訪れてはいたのに、十月の頭に会ってから、ぱったりと行っていなかった。電話連絡は入れているが、顔を合わせていないという意味では無沙汰だ。つくづく勝手なものだと思う。それでも電話での彼は八代の体調や受験の心配ばかりしてくれるのだから、ありがたいとしか言いようがなかった。
 弘を紹介したら、彼はどんな反応をするだろう。
「ただいまー」
 嬉しそうな声は無邪気だ。弘は「ただいま」と言うときだけ、まるっきり無防備な子どもになる。
「あーおかえりー。八代君、いらっしゃい」
「お邪魔します」
 利休(りきゅう)白茶(しらちゃ)の長羽織を着た雅が迎えてくれた。
「話があるのよね?」
「はい」
「じゃあお茶にしましょう」
「はい」
 博さんひーちゃんと八代君が帰ってきたよーと言いながら、雅がリビングに戻っていく。
 帰ってきた。
 この表現は適当なものだろうか。
「うー、あったかい」
 呟く弘がマフラーを取る。薬缶(やかん)の乗った石油ストーブが赤々と燃えていた。
 柘植家のリビングはいつも明るく、丁寧で、ぬくもりがある。はじめて来たとき、八代はすべて自分とは異質で信じられないものでしかなかったのに、今はもう不自然は感じない。
「おかえり、ヒロ。八代君、いらっしゃい。スコーンのお知らせもらったから」
 博の言葉が途切れる。
 八代はかすかに笑った。
「紅茶を淹れさせてください。コーヒー以外でしたら、それなりの味を保証できます」
「お湯沸かすね」
 博が笑って薬缶に水を入れる。ストーブの上の薬缶はそこが絶対的な定位置なのだとかで、ほかの用途には使われないらしい。
 エコバッグの中から出てきたスコーンを見て、雅が「わぁおいしそう、見事な狼さんのお口」と喜ぶ。
「よく似た母娘(おやこ)だよね」
 忍び笑いで博が言うものだから、八代も笑って肯定した。
「クロテッドクリームつくったよ。味見はしたけど、八代君の口に合うかどうかは自信がない」
「大丈夫です。なんでもおいしくいただけますよ」
「誰かさんのおかげで?」
「はい。誰かさんのおかげです」
 雅が、「ケーキスタンド欲しーい」と子どもみたいな口調で言った。弘の「三段がいい」が続く。
 八代と博は笑いながら紅茶を淹れた。



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