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 弘がくちもとを覆った。
 八代が口を開くよりも先に、弘の鳶色の目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「弘、結婚するとはそういうことよ。私たちが恋しいなら、八代君にお願いしてモラトリアムを許してもらいなさい」
「わ、わたし……」
 眼鏡を外した弘がポケットからハンカチを出す。目もとにぎゅっと当てた。
「お母さんとお父さんは好きだけど、恋しいわけじゃないの。恋しいとは違う」
 ひくっ、としゃくり上げる。
「どうして哀しくなったのかわからない……」
「弘。自分は少し特殊な状況にあるのはわかるね?」
 博のやさしい声に、弘は泣きながら素直に頷いた。
「短い期間に八代君と一緒に大きなことを決めた。一生を左右する大きなことだ。弘はこれまで比較的のんびりした時間で生きてきたから、いきなりの濁流は疲れるよ。俺も雅も弘を責めない。甘えるななんて言わない。高校を卒業したらまた忙しくなるから、せめて今くらいはゆっくり休んでほしいと思ってる。――ゆっくりする場所が少しスライドするだけだよ。帰ってくるななんていう意味じゃない」
 テーブルの下で、隣に手を伸ばした。気づいた弘が、哀しくなっている手でぎゅっと握ってくる。
「住んだらいいんじゃないのかなあ。うちにはいつでも来てお茶してごはんして泊まっていけばいいわけで」
 雅がけろっと言った。
「でも、まあ――私たちは八代君の何もかも疑ってないけど、世間様がどう見るかっていうのはあるか」
「残念ながらそれほどやさしくはないからね。特に未成年ともなればなおのことだよ。社会的には高校生はまだ子どもだから、守らなきゃいけないぶん目も厳しくなる」
「先輩とお話させてください」
 涙を含んだ弘の願いごとは、博と雅にやさしく受け入れられた。
 弘は完璧ではないのだ。思い切りがいいだけのただの女の子なのだから、慣れないものにばかり襲われたら不安定になる。
 バスに揺られるときのように、身体がふらつく。
 弘が転びそうになっていたら、八代は彼女を支えるのだ。
 理由ならいくつでもつけられるけれど、理由なんていらない。



 弘の狭いベッドは久しぶりだった。
 カーテン越しの窓は冷たい。曇天(どんてん)の夜らしく、暗かった。
 目覚まし時計の音がする。
「先輩、がっかりなさいましたか?」
「うん?」
「わたしが……いきなりあんなふうに泣いてしまって……」
 そう言う声さえまた泣きそうだ。頼りない視線の瞼をそっと閉じさせて、キスをした。長い(まつげ)を指先でなぞる。
「がっかりなんてしないよ。いつも負担かけてごめん」
「謝るなんて……お願いですから、そんな……謝らないでください。ひとりぼっちみたいな気持ちになります」
「ほかにどう言ったらいいのかわからない。なんて言えばいいの?」
「……強制しているように聞こえてしまうかもしれませんので、あまり言いたくありません」
 伏せた睫が少し濡れていた。
「柘植サンだったらなんて言う? 教えて」
 ほんの少しの沈黙のあと、弘は小さな声で答えた。
「ありがとうございますって言います」
「……いつもがんばってくれて、ありがとう」
 ごめん、はよく言う。
 でも、言われてみれば、ありがとうは少ない。
 八代は謝罪で構成されている。
「はい。……先輩」
「うん?」
「キスしてほしいです」
「顔上げて」
 少し泣いている弘がわずかに上を向く。やわらかい癖っ毛をかき上げて、額に掠めるようなキスで触れた。
 ありがとうございます、とぐずるみたいに言って、ぎゅっとくっついてくる。八代は、細い小さな身体をやさしく包んで背中を撫でた。
「先輩のところに生活の拠点を移すのがいやなわけではないのです。泣いてしまうなんて、自分でもびっくりしました。母に言われて、急に哀しくなって――父は言語化してくれましたけれど、それでもまだわからない気持ちがあります」
「色々重すぎるからね。柘植サン、疲れてるんだと思うよ」
 腕の中で見上げてきた弘の大きな瞳と、八代の黒い目がぶつかった。涙に濡れてはいるけれど、彼女の瞳にあるのは哀しみや寂しさではない。意外そうにしている。
「疲れているとは思いませんよ?」
「博さんが言ってたのに……自覚がないなんて性質(たち)が悪い」
 ぴよぴよ跳ねているやわらかい髪を梳く。濃い茶の癖っ毛やあたたかい身体から、かすかに石鹸(せっけん)が香る。同じものを使っているのに、どうしてこんなにも違うのだろう。弘のにおいはいつも甘い。
「心配もろくにさせてくれないなんて悪い子だね、泣き虫の柘植サン。……いきなりずっといてほしいなんて言わない。博さんが言ったのは事実だしね」
 自分たちはまだ子どもなのだ。
 どんなに自我が確立されていても、守られる対象なのだった。
「週末だけでいいから、来てほしい」
 弘は黙って八代の胸に額を擦りつけた。
 最近になってわかったことだ。
 これは、彼女なりに精一杯甘えてくれている。
「父親には説明しとく」
「ご挨拶させてください」
「……来てくれるって理解していい?」
「はい」
 八代は弘を抱きしめた。
「甘やかすから覚悟して」
「やめてください。堕落してしまいます」
「してよ。俺とふたりでいるときくらい、俺なしじゃ生活できないくらいだめになってるところ見せて」
 弘の肩がわずかに揺れた。笑ったのだ。
 安心した。
「堕落したくなくても、ホットケーキとプリンとココアは欲しいでしょ?」
「……」
「毎朝オレンジ食べさせてあげるよ」
 細い指がそろりと伸びてきて、頬に触れられた。
 摘みもしなければつねりもしないところが弘らしい。八代なら絶対にむにっとやっている。
「先輩、意地悪です」
「今頃気づいたの?」
 ちょっと拗ねたみたいな顔が珍しくてかわいくて、笑ってしまった。
「……意地悪な俺は嫌い?」
 てのひらで頬を包む。眠りの淵にある甘い体温が伝わってくる。
「もう、きらいになった……?」
 暗い中で瞳を覗き込む。弘は頬を染めて、最後の抵抗で八代にぎゅっとくっついた。顔を隠したのだ。
「意地悪でも、好きです……」
 小さな声だ。八代は少しだけ笑う。
 暗い部屋でも赤い気がする、熱を持ってしまっている耳もとに囁いた。
「我儘のひとつも満足に言えないお姫様。……胸焼けするくらい甘やかしてあげる」
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