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「じゃあ遊んでよ。退屈なんだ」
「そこらへんに散らばってる本でも読めばいいだろ」
「口寂しいんだよ。それに寒い」
 寒いのは温度調節がおかしいからだ、と言いかけて、口を(つぐ)んだ。
 八代は素足で、制服の開襟シャツを胸まで肌蹴(はだけ)て、ベッドの上に片膝を立てて座っていた。長い指が挟んだ煙草の先が、じりじりと(くす)ぶっている。
 ――あれは。
 あの火は、欲望の火だ。
 触れてはいけない。
 知ってはいけない。
 鷹羽は震えながら眼を()らし、胸元をぐっと掴んで深い息をつく。落ち着きたい。けれど八代が許してくれる筈がなかった。
 怯えるように苦しげに(まぶた)を閉ざしている鷹羽の様を見ながら、八代は煙草をくゆらせる。
「ねえ、鷹羽。――学校は楽しい?」
「――」
 心臓が、止まるかと思った。
 ――どうして、今日に限って。
 鷹羽は掴んでいた胸元を見る。
 唇を噛んだ。
 ――止まってしまえばよかったのに。
 八代は鷹羽の心臓を、一息に鷲掴(わしづか)みにしたのだ。その、たった一言で。
「別に。――変わらないよ。何もない」
 楽しいことも、苦しいこともなかった。
 今までは。
 ぎしりと、ベッドが(きし)んだ。近づいてくる八代の気配。まだ一センチも燃えないままに灰皿に押しつけられ、無残にひしゃげた煙草が、崩れ落ちて嘆く自身の姿に重なる。
 足が(すく)む。膝をついてしまいそうだ。
 必死で耐える鷹羽を見下すように、八代は鷹羽の至近距離、胸が触れ合うほどの距離に立った。
 それでもこの男は、決して抱き寄せることはしないのだ。
 どこまでも残酷な、絶対的なる支配者。
 鷹羽のすべての上に君臨する者。
 八代の親指が、鷹羽の震える唇をつ、となぞる。背筋が粟立つ。八代は獲物を嬲る(なぶ)って遊ぶ猫のように眼を細めて嗤う。
「それじゃ及第点はあげられないな。もっと俺を悦ばせてくれなきゃ、ご褒美はあげないよ? ――おねだりの言葉なら、ついこの前教えてあげただろう?」
 言葉尻が、キスに紛れる。鷹羽は棒立ちになったまま、脳裏に鮮やかに(ひらめ)く甘やかな弘の姿を見た。
 疑うことなく光に向かう、一輪の花のようなひと。
 ――弘君。
 見開いた鷹羽の両眼から、涙が(あふ)れた。
 ――弘君。
 弘を、裏切っているような気がした。彼女の信頼や思い遣りを、()(にじ)っている気がした。
 だってそうだろう。
 ――僕は、彼女に嘘をついた。
 それは罪だ。
 深いくちづけが、淫靡(いんび)な微音をさせて離れた。唇の間を銀糸が繋ぐ。これは鎖だ。(とら)われた証だ。
 鷹羽の両頬を大きなてのひらで包んだ八代が、ふと嗤う。舌を薄く出し、ぺろりと己の唇を舐めて銀糸を断った。
「鷹羽。――まだ独りなの?」
 耳を冒す幻想のような現実。淡い囁き。
 涙が止まらない。
 瞬きすら許されないまま、鷹羽はただ呆然と涙を流し続けた。
「お前が……」
 一度声を発したら、まるで今までの静寂の涙が嘘のように咳き込んだ。
 無声(むせい)慟哭(どうこく)
 こんな僕に、声を上げて泣くことが許される筈がない。
 心のどこかから、声が聞こえる。世界を統べる、姿さえ見えない強大なもの。
 ――さあ、言うがいい。
 これは罰なのだから。
「……僕には、お前しか、いない……!」
 これが懺悔(ざんげ)になるのなら、どんなにいいだろう。
 八代の暗い黒瞳は、鷹羽の涙も傷も映しはしないままだ。ただ定められた通りに反射するだけ。それが鷹羽にどれほどの孤独感を与えているか、この男は知っているのだろうか。
 血を吐くように告げた鷹羽とその言葉に、八代は満足気に眼を(すが)めて笑った。耳もとに唇を寄せ、決定的な暗闇を突きつける。
「――かわいそうな鷹羽。どうしても俺なしじゃいられないんだ?」
 俯いていた面を無理矢理に上向かされ、涙の跡を唇が這う。鷹羽は八代の背に両腕を回し、縋りついた。獣の爪が欲しかった。抱き締めた八代ごと、自分も引き裂いてしまいたかった。
 鷹羽を囚人の身に陥めた長い指先が、仕草ばかりは甘く鷹羽の髪を梳く。
 耳もとで、遠く誘惑の嘲笑が聴こえる。
「よく言えました。合格だよ。――強制されているとわかっていながら、その言葉を言うしかないなんてね」
 強制されているとわかっているのに。
 どうしてだ。
 鷹羽は八代のシャツを、爪を立てるように強く握り締める。
 立っていられない。
 膝から力が抜ける。ずるずると引きずり落ちるように、鷹羽は床に両膝をついた。
 長い腕に引き寄せられる。(おとがい)を持ち上げられて、涙で(にじ)む視界のむこうにいたのは、救いを求めれば施してくれるのではないかと錯覚するほどの、甘い禁忌の微笑だった。
 もう何度目かもわからないキスに、鷹羽は一切の抵抗を放棄した。
 何も考えなくていいという、あまりにも甘美な誘惑に、鷹羽は負けた。
 そして事実、それはひどく甘かったのだ。
 ここにしかいられない。
 自分の居場所は、ここにしかない。
 その偽りの前には、他のどんなきらきらしいものも価値を持ちはしない。
「『かわいそうな鷹羽』。――上手に言えたご褒美に、キスよりもっと気持ちイイコトを教えてあげるよ」
 それは、とても、甘かった。
 嘲弄(ちょうろう)に揺られながら、だから鷹羽は思ったのだ。

 ――いっそ、この腕の中でしか生きられなければいいのに。






 (not) end.
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