ラプンツェルの寝台  |  next   

白雪姫の魔法の






 終業の鐘が鳴った教室で、(ひろむ)は大量のプリントを机の上に積み重ね、一定量を取ると端を三箇所、丁寧にホチキスで留めていく。ぱちん、ぱちんという音がささやかに聞こえる。空はまだ明るい。時折ふと微笑を見せ、顔を上げて何かを話している。向かいに座って同じ作業を繰り返している鷹羽(たかは)と談笑しているのだ。
 きっと、とてもくだらない、他愛もない会話なのだろう。
 鷹羽にとってはすべて胸に秘めていくような場面でも、彼女たちが交わすのはほんとうに取り留めのない、――天気だとか弁当の内容だとか、そんなありふれた会話ばかりだ。
 とても、遠い。
 弘も、鷹羽も。
 伊織(いおり)にとっては等しく手の届かないものだ。
 山と積み上げられたプリント、恐らくふたりがかりでもすぐには終わらない筈だ。思った伊織は足を温室に向けた。



 学校の中庭に位置する、全面硝子(がらす)張りの美しい温室。とても田舎の公立高校のものとは思えない。偏差値でいえば公立校の方が高い土地柄だが、私立校の方が富裕なのは他と同じだ。
 実のところ、伊織は温室に興味を持ったこともないし、勿論(もちろん)入ったこともない。弘から聞いた話では、室内はきちんと空調機があり、年中植物にとって快適な温度に保たれているのだという。
 農業高校でもあるまいし、ずいぶんと熱心なことだ――笑顔で頷く裏でそう思っていたが、あとになって、育てている薔薇が毎年市の品評会において優秀な成績を修めているのだと知った。全国区に進出することもあるという。もっともこれは、共通の友人である次子(つぎこ)から得た情報だが。
 温室の扉はやはり硝子張りで、観音開きだった。まるでお伽噺(とぎばなし)に出てくるような蔓植物の意匠の取っ手は青銅色で、所々に(わず)かな金色が貼りついて残っている。
 わざわざ手をかけて開く必要はなかった。細く開いた隙間から、伊織は猫のように身体を滑り込ませて中に入る。白い床に、硝子によって屈折率を変えられた陽光が反射している。
 ――水に揺れてるみたい。
 伊織が想像していたものとはまるで違っていた。
 温室というからには、もっと閉塞的で、大気が停滞していて、そのくせ土と水のにおいばかりする場所だと思っていた。
 けれど今伊織が立っている場所は、そんなことを感じさせない。覆われているのは確かなのに、閉じ込められているとは感じなかった。周囲が硝子で、陽光が直接入ってくるというのがいいのだろうか。それとも、年中稼働しているらしい空調機のためか。
 いずれにしろ室内は明るく、開けた印象で、目の前に整然と並ぶ植物も行儀がいい。
 ――弘君はいつもこんなところにいるんだ。
 想像するのは容易だった。だってとてもよく似合う。明るい場所で、綺麗な植物に囲まれて仕事をして、笑っている弘。
「これはこれは。また上等な血統書つきの猫だね」
 奥から声が聞こえた。
 別に驚かない。彼がいることを伊織は知っていたし、彼に会うために――正しくは彼を見るためにここへ来たのだから。
 弾けるように活き活きとした緑の葉の間を、音もさせずに縫って歩く。微笑を含んで近づいてくる長い手足の彼を見て、伊織は、
 ――猫みたい。
 と思った。
 獲物を見つけて、逃げられないのを知っていて近づいてくる、闇をその身に(まと)って紛れて息もしないで、――そうして、捕まえた獲物を満足いくまで(なぶ)ったら、最初から何もなかったかのように()()てていくのだ。
「ごきげんよう、不機嫌なお姫様? そんなところに突っ立ってないで、こちらへどうぞ」
 エスコートとして手を差し出すその所作も優雅だが、言葉には一片の思い遣りもない。
 ――血統書つきの猫。
 彼は伊織を見てそう言った。伊織はそんな彼を見て猫みたいだと思った。
 ――同類、ということか。
 なるほど、確かにそうなのだろう。目の前にいる彼の表面は素晴らしく端麗だ。(ほころ)びも縫い目も綺麗に隠して、終わりも始まりもまるで見当がつかない。
 伊織は無言で彼の手を取り、導かれるままに蔓薔薇(つるばら)の意匠の白い円卓と揃いの二脚の椅子、一脚の長椅子が置かれた一角へと案内された。
 背の高い男だ。弘ほどではないにしろ小柄な部類に入る伊織は、目線を上げただけでは彼の顔を見ることができない。
「どうぞ?」
 言葉だけは丁寧に、椅子を引いて着席を促す。微笑を含んだ表情はやさしいと言えなくもないが、それよりもなんだか、――険の方を感じ取ってしまう。
 怯みそうになるのを堪えて、伊織は肩に落ちかかってきた髪を乱暴に後ろへ払った。つかつかと傍へ寄ると、椅子には座らず、円卓に腰を落ち着ける。
 僅かに届かないつま先がぶらぶら揺れる。
「感心しないね」
 ほんの少し眉宇(びう)を寄せて彼が言った。伊織にとってはどうでもいい。
 薄い銀縁の眼鏡をかけた彼は小さく嘆息すると、円卓に両手をついて伊織を覗き込んできた。
「お茶は必要かな?」
「いらない」
「だろうね」
 予想通りの反応だったのだろう。薄く笑う唇に腹が立つ。
「ねえ、久我(くが)――」
 久我、なんというのだろう。下の名前を知らない。
八代(やしろ)だよ」
 まったく興味のないふうで伊織から離れた八代は、気安い口調で言葉尻を()んだ。
「――ふうん? 悪くない名前」
恐悦(きょうえつ)至極(しごく)。キミは宇佐美(うさみ)サンで間違いないかな?」
「なんでわかったの」
 足をぶらぶらさせながら、西洋人形のような可憐な唇を尖らせる。八代は笑った。
「ここに来るのは柘植サンを好きな人間だけだよ」
「――……」
 言葉がない。八代は追い打ちをかける。
「なお()つ、俺の存在を危惧(きぐ)している人間だけだ」
 伊織は黙り込んだ。応対できる言葉を何も持っていなかった。
「……弘君は今日は来ないよ」
「知ってる。律儀だからね、来られないときはちゃんと報告に来る。優秀な彼女は今日も今日とて生徒会の助っ人をしているらしい」
 なんだろう。この、胸のざわつく感じは。
 八代の声は穏やかで静かで、狂気とも暴力とも縁遠い。それなのに何か、たった一度触れただけで死んでしまうような何か――鋭利な刃物ほどやさしくもなく、灼熱(しゃくねつ)の炎のように平等なものでもない、
 ――何かが。
「だから」
 ふ、と八代が眼を(すが)めた。
「キミが来てくれて嬉しいよ」
 ――退屈しのぎにはもってこいの――
 ――罪に(まみ)れたお姫様。
「あたしは別に、やっしー先輩に会えても嬉しくないけどな」
「初対面にもかかわらず勝手につけた愛称で呼んでおいていい度胸だね。嫌いじゃないよ」
「じゃあ好き?」
「それはこれから決める」
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