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 (つか)みどころなく伊織の手から逃れていく。不意に八代は伊織に背を向け、屈み込むと、鉢植えの間からばかっ、と音をさせた。小さな冷蔵庫があるらしい。
「何?」
「お茶を()れるんだよ。キミはいらなくても俺は欲しい」
「淹れるならあたしにも淹れてよ」
 言うと、八代は軽く肩を(すく)めた。
「やれやれ。我儘(わがまま)なお姫様だね」
 ――お姫様。
 ここで用いられているこれは蔑称(べっしょう)だ。
「……弘君とは、大違い?」
 訊こうか、どうしようか。
 迷って、結局訊いてしまった。
 ほんの少しだけ首をめぐらせた八代が、くちもとだけで笑う。
「どうかな」
 答えもくれないのだ。
 伊織は思う。
 昔どこかで知った。人間は心から笑うとき、目もとが最初に笑みをかたちづくるのだと。――作り笑いをするとき、瞳にはあたたかい灯が燈ることもなく、くちもとだけが不自然に歪むのだと。
 十分も経っていないこれまでの遣り取りの中で、八代が心から微笑んだ場面があっただろうか。
 そう思うのに、
 ――彼の微笑は美しかった。
 不自然さなどどこにもない。
 特別に容貌が整っているわけではない、と思う。
 伊織は自分の容姿の美しさを知っている。それでつらい目に遭った過去もあるけれど、今は開き直っているから、何より自分自身で認めているから、他人に対しても過小評価はしない。買いかぶりもしない。好みに合致するかどうかはまったくの別問題として、伊織は人間の容姿の美醜を客観的に評価し、そのどちらかに分類する。
 八代は取り立てて美形、というわけではない。が、繊細な造作ではあるように思う。鷹羽の中性的な、やわらかな線の細さとは異なるが、それでも線が細いことに変わりはない。どことなく(はかな)く、(うれ)いを含んでいるような。
 (うつむ)く彼の、重力に従いさらりと流れている黒髪や、薄い眼鏡の奥の双眸(そうぼう)や、長い指、整えられた爪が。
 ――ほんとうにつくりものなのだろうかと思わせる。
 真実、が、あるのではないかと。
 淡い期待を抱く。
 植物の世話は想像するほど甘くはなく、優雅でもない。毎日せっせと額に汗しなければならない、土に塗れなければならない重労働だ。
 それをこのひとはやっている。
 けれど何より重要な理由は、もっと別のところのものだ。
 ――弘が、八代を信じているから。
 恋ではなくても、愚かしいほど純粋に慕っているから。
「……ねえ」
「うん?」
 背後で食器を置く硬質な音が微かに聞こえた。
「あたし、かわいい?」
 平坦な声で伊織は尋ねた。緩く波打つブルネットの髪先を指で摘んでいじりながら、出し抜けに。
 八代は小さく笑う。
「かわいいよ」
「弘君よりも?」
 感情の波など僅かもない、八代が伊織に対してかわいいなどと思っていないことがすぐに知れる答え方だった。八代は隠す気がないのだ。
 伊織は八代を見上げた。長い髪が滝のように零れ流れる。
 蔓薔薇の意匠の白い円卓、その上に行儀悪く座っている伊織。天井を見上げるように視線はほぼ垂直だった。伊織の背後に八代はいて、虹が揺らぐ白い床を見下ろすように視線を交わらせている。
 (はた)から見れば、きっと恋人同士が(たわむ)れて見つめ合っているように見えるだろう。――きっと。
 それでも伊織は、八代が自分に対してなんの興味も持っていないことがわかる。至近距離で見つめ合っているのに、視線は確かに絡んでいるのに、見られているという気がしない。そしてそれは多分正しい。八代は恐らく、伊織の、(つや)やかな長い髪と同じブルネットの瞳を覗き込んで、彼女の中にある弘を透かし見ているのだ。
 黒い瞳だ、と思う。
 暗い瞳だ、と思う。
 繊細な造作の八代の目もと、その瞳に映り込んでいる自分が見える。少し目尻のつった大きな双眸の、同性に嫌悪されるほど華やかに整った自身の顔が。
 前触れなく、八代の長い指が伊織の喉笛を下から上につう、となぞった。
 気に入りの猫を愛撫するように、触れるか触れないかの間隔で、けれど確かに触れて辿(たど)った。そのまま、大きなてのひらに後ろから(おとがい)を包まれる。
 八代は薄く笑っている。
 ――ゲームみたい。
 勝敗がはじめから定められたゲームのようだと伊織は思う。
 ――如何様(いかさま)だ。
「かわいいよ。――その、嫉妬に狂っているところなんかが、特にね」
 ……ほんの少し伊織が背伸びをすれば。
 或いは八代が身を屈めれば唇が触れ合う距離で、愛を囁くような甘い声で言う。伊織はただ見つめるばかりだ。
 ――吐息が触れるほどの距離なのに。
 見つめ合っているのに。
 触れられているのに。
 何も感じない。
 ――何も。
 弘と手を繋いでいるときのような、大切に大切にそっと胸に抱き締めたくなるような、ふわりと淡いぬくもりがない。
「じゃあ、あたしとキスできる?」
 心が動かない。
 ――逃げ出したい。
 微かに目を細めて挑発した伊織に、八代は綺麗に微笑んだ。
「勿論。なんなら、その先も」
 まるでそれが当然であるかのように。
 ――眩暈(めまい)がしそうだ。
 吸い込まれそうな黒い瞳。
「うそつき」
 小さく、やはり単調に言って、伊織は八代の手からするりと抜け出した。
 黒い暗い瞳を持つ影のような男の、闇の舌先のような指が引き留めないままするすると離れていく。余韻が、やわい波の伊織の髪先を、少し遊ぶ。
 円卓から下り、そのまま歩き出すと、髪に触れていた感触は残酷なほどあっさりと途絶えた。
 視線を感じる。見つめられているのがわかる。揶揄(やゆ)の視線ならまだいい。慣れている。拒絶も、嫌悪も。
 でも恐らくは、嘲笑(ちょうしょう)のそれだ。
 ふり向くことはしなかったのに、八代がどんな顔をしているのかがわかってしまう。だって、
 ――だって、
 きゅっと唇を引き結んで、何も言わず温室を後にした。八代も何も言わなかった。当然だ。知っている。彼にとって、伊織のすべてはどうでもいい。
 変わらない歩調で淡々と進む。目的地なんかない。温室を離れられさえすれば、――八代のあの視線の届かないところに行けさえすれば、それがどんな場所だろうと関係なかった。地獄の底でも構わなかったし、暗闇の深奥でもよかった。
「――っう……っ」
 けれど。
 いつの間にか下を向いて歩いていた自分の足もとに、小さな白い花が咲いていることに気づいた瞬間、その存在を認めた途端に、身体の深い部分からどうしようもないものが込み上げてきて、
 声が()れて、
 伊織は走り出した。
 ――どこか。
 どこでもいい。
 どこか。
 八代の視線の届かないところへ。
 弘の温度から遠いところへ。
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