back  |  シンデレラにガラスの靴を   
 走って、走って、目の前に立ちはだかったかと思うような(くすのき)の大木に音を立てて手をつけた。
 途中、誰かとすれ違っただろうか。覚えていない。誰もいなかったような気がする。不安だ。今この世界に、(もろ)鳥籠(とりかご)のような囲いの中にいるのが自分と八代だけだったら、どうしたらいいのだろう。
 自分と八代と、――弘だけだったらどうしよう。
 どちらへ行けばいいのだろう。
 どちらにも行けない。
 伊織は木に手をつけたまま、寄りかかるように回り込んだ。は、と息を吐いて(もた)れる。楠は大きく、周囲の木も年経た古木で大きい。高いところにある葉は幅が広く、それでも日光を完全に(さえぎ)ることはせずにざわざわと揺れている。
 見上げれば木漏(こも)れ日が(まぶ)しい。見下ろせば土が細密画のようにきらめいている。今日はいい天気なのだ。大気もやさしい。鳥の声だって聞こえるし、視界に広がる景色は明るい。
 そしてそんな何もかもが、伊織を孤独にさせる。薄暗い森の奥に追い込んでいく。
「……どうしよう……っ」
 我慢ができず、声に出してしまった。走ったからではなく呼吸が乱れ、顔に痛いくらいの熱が集まってくる。
 くちもとを両手で覆う。指先が氷のように冷たい。
「どうしよう……っ」
 夕立のようだった。
 激しく降る雨が傘を叩くようにばたばたと、伊織は涙を落とした。
 身体を折っているから垂直に落ちていく。けれどそれは先ほどの八代の視線のように無機質なものではなく、当然土を素通りすることもなく、大粒の滴は落とされたまま、落ちた場所にそれぞれ染みを作っていった。
 ――あんな。
 あんな眼差しのひとだなんて。
 これまで伊織が受けてきた拒絶や嫌悪の視線とは違う、あれは、あれは決定的な、
 ――(さげす)み。
 ――あんな嘘をつくひとだなんて。
 伊織をかわいいと言って、キスもその先も、と(うそぶ)いた。
 伊織に嘘だと、そんなことは露ほども思っていないとわからせる言い方で、表情だけは綺麗に微笑んで言ったのだ。取り繕う、と言えるようなぎこちないものではなかった。微笑だけ見れば疑う余地のない完璧なものだった。
 それが、怖い。
 そんなひとが弘の隣にいる。
「……弘君……っ」
 唇が戦慄(わなな)く。怖い。あのひとが怖い。
 伊織は堪えきれず泣き声を上げた。
「弘君が……っ、弘君が傷ついちゃう、弘君が、……っ……どうしよう、こわい、」
 ――だれかたすけて。
「こわいよおっ」
 悲鳴を上げて両手で顔を覆った。てのひらがどんどん濡れていく。指の隙間から(あふ)れ出した涙が、手の甲を伝い流れていく。
 立っていられなかった。太い幹に背をつけたまま、泣きじゃくりながらへたり込む。歯がぶつかって音を立てるほど震えていた。こんなにやわらかな季節なのに寒い気がする。土埃(つちぼこり)でさえきらきらと光の粒子をまとうほど陽射しは明るいのに、深海みたいに暗くきんと冷たい気がする。
 弘が八代に傷つけられるのが怖い。
 でも、
 ――傷つけばいいと思っている自分がいる。
 弘を好きなのに。大切なのに。唯一の、伊織を異端視せず、傍観者にもならなかった存在なのに。
 それがわかっていて、八代に彼女が傷つけられることに恐怖しているのも事実なのに、まるで正反対のことを望んでいる自分がいる。
 伊織にとって、弘はいつも眩しかった。
 自身に注がれる愛情を疑わず、弘もまた、与えることを惜しまない。
 同性の輪から弾かれていた伊織に、親しげに声をかけてきたのが弘だった。異端視されている伊織を気遣うことで優越を得たいのかと勘繰(かんぐ)って、眼を()らした。
 いつまでも(かたく)なな伊織に腹を立てることもなく、弘は会えばごく自然に挨拶し、視線が合うと微笑んだ。
 弘の中に下劣(げれつ)なものがないことはすぐにわかった。それが余計に哀しかった。伊織は彼女を疑ったのだ。そしてずっと突っぱねてきた。
 弘は相変わらずにこにこしていたけれど、――伊織の心はそのときもう溶けていたのだけれど、今さらという気がして感謝も謝罪もできなかった。拒絶されるのも、怖かった。
 身動きできなくなってしまった伊織が心と言葉の行き場を探していたときに、同じクラスの男子生徒に何かを言われた。侮辱されたのだと思う。ひどい言葉だったのだろう。なのにまったく内容を覚えていないのは、男子生徒の顔さえも思い出せないのは、それ以上の出来事にすべてを支配されてしまったからだ。
 弘が腹を立てたところを、そのときはじめて見た。
 彼女のやわらかな手がひとを傷つけることがあるのだと、はじめて知った。
 彼女は伊織を(はずかし)めた男子生徒の頬を打った。信じられなかった。
 そのあと弘はその男子生徒に謝っていたけれど、伊織は自身が彼に謝ってもらえたのかどうかの記憶がない。言われたそのときは確かに傷ついたような気がするのに、なんだかどうでもよくなっていた。
 弘は伊織に謝ってきた。わたしが勝手に怒って、宇佐美さんを(おとし)めてしまってごめんなさい、と。
 意味がわからなかった。
 戸惑ってしまった伊織に、あいつはああいうやつなんだ、と言ったのが次子で、どこか斜に構えているような彼女はいつの間にか傍にいた。伊織は次子から弘のことを教わった。だから、次子は弘とは別の意味で特別だ。二番目だけれど、特別だ。
 いちばんはいつだって弘だった。
 いつも弘の少し後ろで穏やかに微笑んでいる男の子がいることに気がついて、――鷹羽の少し困ったような微笑がとても綺麗で。同性でないという、その時点で自分とは根本的に異質なものだったから、伊織は安堵(あんど)した。彼は伊織と距離を縮めるようなことはしなかったが、邪険にすることもなかった。それがとても心地よくて、鷹羽と離れた場所にいるのが好きになった。
 伊織は、弘や次子や鷹羽のことを考えると、いつも自分が誰を好きなのかわからなくなる。達観している次子は頼る存在だが、鷹羽は(うらや)ましい。でも、鷹羽の何が羨ましいのかはわからない。綺麗だからだろうか。そんな気もする。彼は弘の隣に在って異質でない。それならやっぱり綺麗なのだと思う。綺麗なものは好きだ。何より彼は伊織を傷つけない。
 なのに、その一方で、伊織はいつも、好きな筈の綺麗なものに傷ついた。
 ――あたしが綺麗じゃないから。
 八代が(わら)って言った。
 嫉妬に狂っているところがかわいい。
 これ以上の核心があるだろうか。弘は誰より大切なのに、同時に誰より(ねた)ましい。
 ――どうしよう。
 あたし、弘君を傷つけてしまう。
 泣きながら八代との僅かな時間を反芻(はんすう)する。何度も。擦り切れてなくなってしまえばいいと思いながら、何度も。
 数分前の記憶は何度繰り返しても少しもぼやけず、どんどん鮮明になっていくような気がした。実際に会話していたときよりもずっと鮮烈なコントラストで、伊織の脳裏に焼きついていく。
 ――鏡に映っているみたい。
 すべてを等しく、正確に映す鏡のようだ。
 伊織だって嘘をついた。
 本当に八代にキスをされたらどうするつもりだったのだろうか。本当は、キスはおろか、髪一本にも触れてほしくなどなかった。
 ――だって、自分だ、と思ったから。
 八代の黒い瞳に映り込む自身の姿を見て、その瞳の中に映っている八代の姿を見て、悟ってしまった。
 このひとはわたしだ、と。
 嫉妬に狂う(みにく)い姿を、律に(のっと)破綻(はたん)なく映し出しておきながら、美しいと甘い嘘を()()く。微塵(みじん)の罪悪感もなしに、望まれたからそうしたのだと。
 ――望めばなんでもしてやるのだと。
 孤独な泣き声が虚しく響く。
 誰の足音も聞こえない。
 守ってくれる小人も、手を差し伸べてくれる王子様も、伊織にはいない。
 お妃様はかつてのお姫様で、お姫様はいつかお妃様になる。誰でも知っている約束事だ。なんて無責任なのだろう。呪われて殺されるための登場人物。どれほどの涙を落とし、どれだけの嘆きを抱えているのかも知らないで。
 ――あたし、かわいい?
 鏡の前で決して口にしてはいけない魔法の言葉だ。
 呪い以外の何ものでもない。
 あの呪文を唱えた瞬間、伊織は焼けた鉄の靴を履いて踊らされる役に決定づけられてしまった。
 鏡がくれる答えはわかっていたのに。
 鏡は嘘しか言わないと、わかっていたのに。
「だれか、たすけて……」
 無垢で無知なお姫様を守って。硝子の棺に横たわらせるようなことにさせないで。
 誰でもいいから。
 ――私のかわいいお姫様を守って。
「……おねがい……!」
 おねがい、と繰り返しながら、伊織は泣いた。自分が弘を助けられないことがわかりきっていたから、泣いて願うことしかできなかった。だから、(かす)れた声を振り絞って必死で泣いた。
 ――捧げられるものが、涙しかなかったから。
 八代か、或いは自分自身か。
 どちらでも変わらない。鏡のこちら側か、あちら側かの違いだ。そして、鏡という反転の真理の前に、境界線は存在しない。
 そう遠くない日に、きっと弘をひどく傷つける。毒林檎を綺麗にラッピングして、りぼんをかけて、心をこめた贈り物ですと――

 ――笑顔で差し出すのだ。



 ――鏡よ鏡よ、鏡さん。

 わざわざ尋ねるまでもない。映し出して確認するまでもないことだ。
 八代の瞳に映った自身のオモテは端麗だった。同様に、伊織の瞳に映り込んだ彼のオモテも。
 ――お互い、わかっていたでしょう。
 鏡の嘘は(かぐわ)しい。
 だからこそ、

 ――最初から、鏡なんて覗き込んではいけなかったのだ。







 (not) end.
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