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 でも信じているのだ。
 八代の、やさしく穏やかで誠意ある側面を疑っていないのだ。自分はそう接してもらっているから。
 大切なことだろう、それなのに当の八代がそれに気がついていない。無意識に、不安定に正反対の顔を入れ替えて、酷薄(こくはく)で残忍な性質が真実なのだと思っている。胸が痛むくらい穏やかな(はかな)い微笑を弘に向けているくせに。
 ――気がつけばいいのに。
 冷笑(れいしょう)嘲笑(ちょうしょう)を浮かべ、他を傷つけることによってしか安定できないなんて、(かたく)なに信じ込んで守らなければならない自分自身ではない。
 出口のない懊悩(おうのう)真摯(しんし)に応え、やさしく微笑む自分も間違いなく自分自身なのだと認めればいいのに。
 そうすれば、不安から――脱出は叶わないかもしれないが、今より格段に距離を遠ざけられる。
「あんた、現状を打破しようと思ったことがあるか」
 尋ねると、八代は、ふ、と(わら)ったようだった。
「ないね」
「誰かが助けてくれるんじゃないかって期待したこともないのか」
 次子が(たた)みかけるような質問をすると、八代は少し眉を(ひそ)めた。
「心外だ。男なりのシンデレラ・シンドロームを持ってるように見える?」
「いや」
 次子が答える合間を縫って、八代は心持ち(うつむ)き、ふうと煙を吐きだした。細く細く。
「それすら諦めてるように見える」
 沈黙が落ちる。
 風さえもどこか遠くに繋ぎ止められ、本来の自由を奪われてしまっている。――刹那(せつな)の間だったが。
「満点はあげられないけど、いい線はいってるね」
「諦めたのか。その若さで? 根性ねえな」
 彼は喉の奥で低く笑った。表情は大差なく、ひとときの笑えない冗談を楽しんでいるようだ。けれど声には(わず)かな(あざけ)りが(にじ)んでいる。黒い瞳が冷たい。
 八代が煙草を咥え直す仕草も目に慣れた。
「いいこと教えてあげるよ。――希望を持つのには時間がかかるけど、絶望は一瞬でできる」
「……魔法使いは案外近くにいるかもしれないぞ」
 気がつけばいいのに。
 弘はあんたの側面を信じてるんだ。疑っていない。あんたが醜いと自覚している部分を(さら)したって、弘はあんたを(いと)わない。
 ――慕ってるんだよ。気づけよ。いつも、あんたの隣で笑ってるんだろう。
「助けの期待の仕方なんて、もう忘れた」
硝子(がらす)の靴を差し出されたら()くか?」
「履かないね。砕け散るのが目に見えてる」
 こんなことを言うのに。
 こんな自棄な言葉を吐いて自らを(おとし)めるくせに、――弘を求める心があるくせに、信じることから遠ざかろうとする。手本ならこれ以上ないものがいちばん近くにいるのに。
 ――怖いのか。
柘植(つげ)サンは理解に苦しむ部分が多過ぎる」
「同感だな。不愉快だ」
 少し遠い声で、八代が(つぶや)いた。
 同感。
 まったくだ。
 弘は八割単純だけれど、あとの二割がどうしても(とら)えられない。きっとその二割が彼女の本質だ。深奥なのだろう。口にすることは可能だろうが、音として発しても現実味を帯びさせることは不可能に違いなかった。
「柘植サンよりも、――俺には、有馬(ありま)サンの方がわかりやすい」
「あたしもあんたの方がわかりやすい。不愉快だ」
「硝子の靴を貰ったの?」
 ――十二時には魔法が解けてしまうから、必ず帰ってくるんだよ。
 過去から今まで一度たりとも、弘に縛られたものなどひとつもない。
「貰わなかったよ。だから魔法はずっと解けないまま現在に至る。――本当はそんなもの、必要ないんだ」
 砕けてしまいそうに薄くて小さな透明な靴。そんなもの、きっかけに過ぎない。
 思うところへ、どこへだって行けるのだと教えてくれるために存在しているものなのだ。
 履く必要はない。
「……気づかないふりを続けるのには飽きないのか」
 問いが、緑の葉先に宿った一滴が震えて落ちていくように(こぼ)れた。
 (しずく)の行き先はどこなのだろう。闇に吸い込まれていくだけなのか。それとも波紋を投じ得るか。
「驚くべきことに飽きない。有馬サンは飽きた?」
 八代の声音は中途半端だ。明るいのか暗いのかわからない。温度も感じない。言葉なのだから当然だ。本来、言葉に明度や温度などない。それでも、明度や彩度で色をつけ、温度を調節して伝えるのが言葉だ。
 次子は軽く吸い口を()んだ。(らち)が明かない気がする。出口が遠過ぎる。
 相変わらず美味くもない煙だ。
 どうでもいい遣り取りだ。
 でも、数少ない応答だけでわかってしまう。
 どうでもよくないからだ。
「ずいぶん前にな。馬鹿馬鹿しくなった。――予告してやるよ、あんたも遠からず馬鹿馬鹿しくなってやめる」
 八代が僅か、眼を(すが)める。不機嫌を隠しきれなかったように。
「賭けるものは」
「命」
「たいした自信だね」
 携帯用の、袋状の灰皿に煙草を押し込む。フェンスから離れて歩き出すと、背後から声が追ってきた。
「灰皿持ってないんだけど」
「知るか。自分の眼球にでも押しつけて消せよ。気づかないふり見えないふりを続けるんなら、眼なんか潰れたってかまわねえだろ」
 闇だけでいいのなら、眼なんて退化してしまって問題ない。
 けれど光を見たいなら。
 光の屈折によって鮮やかに輝く世界を見たいのなら、眼は潰してはいけない。暗い部屋に閉じこもって灰をかぶり、俯いたままでは何も解決しない。
「……なんか、いつも置いてかれてる気がするなあ」
「それが気に入らないんなら追いついてくればいい。無駄に長い足持ってるだろうが」
 欲しい、と手を伸ばすことを怖がらなくてもいいのだ。望むものがあるのなら、歩いて走って自分の手で(つか)めばいい。それに値する能力はあるのだから、自覚と気持ちだけで届く。
 八代の存在は、次子にとって痛い。まるで幼い頃の自分を見ているようだ。欲しがる前に諦めて、望みそうになると眼を()らした。
 硝子の靴は砕け散りはしないけれど、履かないと言った八代はまだ賢明だ。聡明さも持っている。盲目なわけではない。
 それなら見える筈だ。
 十二時になれば消えてしまう、その場しのぎの魔法を弘は知らない。
 だから魔法は解けないし、十二時を過ぎても愛するひとと抱き合っていられる。時計を止めて、「まだ大丈夫ですよ」と微笑んでくれる。
 ――早く気づけよ。
 腕を伸ばせば届く距離に魔法使いはいて、怯えて膝を抱えていなくてもいいとキスをくれて、せっせと用意した丈夫な靴を微笑みながら差し出してくれる。お散歩しましょうと誘ってくれる。
 硝子の靴なんてなくていいんだ。
 助けてくれるひとがいるのだと信じられる、それだけで充分なんだ。
 十二時を過ぎたからと言って、自分から灰をかぶらなくたっていいんだ。

 寂しがり屋でへそ曲がりのシンデレラ。
 まずはあいつの魔法に気づくことからはじめろよ。







 (not) end.
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