シンデレラにガラスの靴を  |  next   

青いの居場所






「入らないの?」
 綾野(あやの)が声をかけると、ちょうどいい具合に陰になって陽射しの緩い渡り廊下の隅に座っていた鷹羽(たかは)が顔を上げた。
 鷹羽はほんのりと笑う。
「うん。名瀬(なせ)さんは?」
「入らない」
 沈着な声色、冷静な顔色。
 綾野は風に乗り流されてきた花びらのように鷹羽の隣に静かに腰を下ろした。
 彼とは少し距離を置いて。
 まだ、本当の意味で隣り合って座るのは難しい。鷹羽にとっても、綾野にとっても。けれど、それが性別に起因しているのかどうかは判断が難しかった。
 緑の音が遠い、光の(まぶ)しい午後だ。
 躑躅(つつじ)の垣根やささやかな木立に中途半端に隠れてはいるものの、渡り廊下に座ったふたりの視線の先にある硝子(がらす)()りの温室はどの存在よりも明瞭で大きくて、そして何より大切だった。
 土曜日の昼下がり。
 平和だ。
 穏やかな風だ。
 朝の張りつめて清浄な光より、夕暮れに激しく輝く太陽の光線よりもはるかにやさしい。ぼんやりとして実体がなく、それでいて影だけは濃い。音の遠近が曖昧で、ひとと会話をしていてさえどこか夢の中にいるような空白の時間帯だ。
 鷹羽は午前中が部活だった。シャワーを浴びて着替えて、少し前まではそのまま帰っていたのに、ここのところずっと学校に居残って半分眠るような時を過ごしている。
 早く帰る日もあれば、空が赤く染まるほどの時間までいることもある。その間中誰とも話さないし、それ以前のこととして他に誰もいなかった。温室は中庭に位置しているが、増改築で不自然に入り組んだ校舎のためか、渡り廊下はほとんど利用されない。ほぼ完全に無用の長物となってしまっている。――正しくは、この渡り廊下は、だ。もう一本の渡り廊下はきちんと機能している。
 その、少しの寂しさが好きだった。
 誰にも邪魔されずひとりで静かにできて、何に怯える必要もない。
 ――鷹羽の恐怖は、もういない。
 それを実感しながら涼しい陰で身体の火照(ほて)りを休めて、姿は見えなくてもあの場所で笑っているのだろうとひとりのひとを想いながらコンクリートの冷たさを布越しに感じている。
 声をかけられたのははじめてだった。
 驚いたのは最初だけで、声の主を認めた瞬間にそれは失われた。
 綾野がここに来るのは当たり前のことのように思えたから。
 そして、綾野がここに来たのは珍しく何もない日だったからだ。塾もなく、そもそも休日だからと遊ぶ相手もいない。綾野にとってのたったひとりは花の相手に忙しい。
 ……それでも空いた時間にはやさしく綾野を誘って、一緒に過ごしてくれる。
 でも、その人物には、時間を作ってやっただとか、一緒に過ごしてやっているだとかいう考えはないのだろう。彼女は純粋な親しみで綾野に接してくれている。
 欲しいと思っても、どうしたらいいのかわからなかった感情と接し方だった。
 綾野自身が、それを欲しいと思っていたことにすら気づけていないものだった。
 何もない日は可能な限り部屋に閉じこもる生活をずっと続けてきた綾野が、わざわざ制服に袖を通して学校までやってきたのは、自習でも図書室に並ぶ本が目当てなのでもない。
 鷹羽と同じ理由だと、彼の姿を見たときに思った。
 ――こんな。
 取るに足らないくだらない場所。
 意味が失われたような灰色のコンクリートが無感動に伸びているだけの隅に好んで座るなんて、どんな暇人かと思う。きっと酔狂(すいきょう)に見えるだろうと思うし、実際自分がこうして座っている人間を見たら怪訝(けげん)に思うだろうとも考える。
 口に出して確認してなどいないが、鷹羽も綾野も同じことを考え、思っていた。
でもふたりにとってこの道は無用のものではなく、無感動な場所でもない。時に泣きたくなるくらい(した)わしい場所だ。
 虹色の光に反射して、温室の硝子がきらめく。美しいプリズム、繊細なスペクトル。
 鮮やかな(ひらめ)き。
「いつもここにいるの」
 綾野に問われて、微かに笑った。
「いつもじゃないよ。頻度は高いと思うけど。名瀬さんは?」
「たまに」
 会話は短い。
 ぎりぎり応答が成立している程度だ。
 鷹羽は硝子の反射に目をくらませているだけだし、綾野は景色の遠さに茫洋(ぼうよう)としているだけで、お互い視線を交えることもない。声だって向き合っていないのだ。
 息苦しさは感じなかった。
 少し離れて隣に座る綾野の気配を感じながら、鷹羽は思う。
 綾野は本当に、解語(かいご)の花だ。
 美しく整い、ひっそりと(たたず)み、言葉は理解するが口数は少ない。
 花だからだろう。
 綾野はきっと高嶺(たかね)にいるのだろうけれど、彼女を手折(たお)ろうとする者はどれだけいるのだろう。こんなに美しかったら、彼女が望んでいなくてもひとの手は離れていきそうな気がする。彼女が、一輪きりで咲いているのは寂しいと花びらに露を結んでも、誰にも気づいてもらえないような気がする。
「温室は遠い?」
 まるで鷹羽が考えていたことを見抜いたようなタイミングで尋ねられた。ふたりが腰を下ろしている場所から目と鼻の先にある温室を遠いかと訊くなんて、綾野はきっと鷹羽と近しい。
「少し。名瀬さんには近い?」
「少し遠くて、少し近い」
 ――弘に露を(すく)ってもらったのだ。
 そう、わかってしまった。
 鷹羽はかつて、弘に崖から引きずり上げられたことがあったから。
「怖がらなくてよくなった分近くなった。でも、失くす必要はないってわかったから……しまっておけばいいだけだってわかったから、その分遠くなった」
 綾野が口にした言葉は、鷹羽が抱いている感情とまったく同じものだった。思わず綾野に向いてしまったけれど、彼女の視線はやはり温室に向けられたまま、鷹羽を視界に入れていない。
 拒絶されていないことははっきりとわかった。
 ――怖がらなくてよくなった。
 ――失くす必要はなく、しまっておけばいいとわかった。
 弘に対しての想いだろう。
 綾野は彼女に対してこれ以上ないほどの高みを見出していて、――きっと、諦めていない。手に入れようとしていないだけだ。
 鷹羽は、八代(やしろ)に対してそう思っている。彼はもう脅威ではなく、自身を投影した薄暗い部屋でもなければ恐怖でもない。八代はまだ抜けきれていないかもしれないが、少なくとも鷹羽は八代という闇から解かれた。八代がこれからどうなるかは鷹羽にはどうにもできない。遠ざけなければ前進が不可能な闇から解かれるかは彼自身が決め、選択して、さらに決定するという行為を積み重ねていかなければいけない。
 ――失くす必要はない。
 ――ただ、しまっておけばいいだけ。
 このふたつの言葉は、八代にも弘にもかかる。疑似的なものだったかもしれないけれど、八代に抱いていた感情は恋だった。
 疑似的なものではなく、本物だとわかったのはつい最近だ。
 恋に落ちることができたらと弘に夢見たのは真実だった。今はそのようにこそ思ってはいないけれど、他の誰より愛という感情を抱いているのはずっと前から変わっていない。
 弘を想うこころに、疑似的なものがあったことはただの一度もない。
 けれど。
 ――叶わなくていい。
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