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 それだけが。
 そのたったひとつが。
 ――叶わないのが哀しいのではなく、叶わなくていいから苦しい。
 それだけが。
「ねえ」
 呼びかけられて、知らず伏せていた(まつげ)を上げた。
「どうして弘君って呼ぶの。……柘植(つげ)さんとか呼び捨てとかじゃなくて」
「それは……」
 ――名前で呼んでも?
 そう訊いたときの弘の顔をはっきりと覚えている。忘れられる気がしない。膨大な記憶と氾濫する情報に呑まれて紛れてしまえば哀しみや苦しみが(わず)かでも軽減されるかもしれないのに。
 弘は本を棚に返す格好のまま鷹羽を見遣った。
 図書室だった。
 高い棚にあるところの本で、小柄な弘は少し背伸びして腕を上げていた。
 その姿が微笑ましくて、ふんわりと染まった頬がマシュマロみたいなやわらかさだというのがわかって、癖っ毛が揺れているのがあどけなくて、
 ――愛おしくて。
 本を取って棚に返すのを手伝おうとするより早く言ってしまっていた。
 自分でも信じられないくらい穏やかな、――きっと、恋人にやさしく囁きかけるとき、ひとはこんなふうに話すのだろう。彼女に対する思慕が声と言葉に出た。
 思いがけてもいなかった質問だったのだろう、確かに唐突な台詞(せりふ)だった。弘はきょとんと鳶色(とびいろ)の瞳を(またた)かせて、それから、
 ――ホイップクリームみたいに甘やかな頬を紅潮させて、抱き締めたくなるような笑顔で「うれしい」と言ってくれた。
 思ったのに抱き締められなかったのは、あの頃、心のどこかで決定的なかたちで弘に触れてはいけないとわかっていたからだ。
「……名瀬さんは、死にたいと思ったことある?」
「死にたくなるほどたくさんあるわ」
 話を合わせてくれた。
 綾野は恐らく繋がる先が見えている。
「僕もある。一度も思ったことがないひとはいると思う?」
「いないって断言したいところだけど、疑わしい人間がひとりいるから答えにくい。……美化しすぎてるのかしら」
「美化の点については僕もわからない。でも、弘君に助けられたことはあるよ」
 言うと、綾野は少し驚いたようだった。(せわ)しない動作ではなく、あくまでも落ち着いた動きではあったけれど、鷹羽を真正面から(とら)えた。
 (つや)やかな絹糸の黒髪、涼しげな目もとを丁寧に(いろど)る黒い睫。陶器のような白い肌で、まるでほんとうの人形みたいだ。
 ふっくらとかたちのいい唇が紅を引いたように綺麗に色づいているから、人間だとわかる。注意して見てみると頬の曲線に少しの未熟さが残っていることに気づいて、うっすらと桜色で、少女らしさがあることにも気づく。
「両親に責められてたんだ。性的な……指向のことで。わかってもらえるかは賭けだったけど、――隠し通すのはものすごく難しいことだとも思ってた。逃げようとしても逃げられるものじゃないから」
 絶縁覚悟で告白した。
 鷹羽なりの腹の(くく)(かた)だった。
 とにかくあらゆるものに真っ向勝負でいかなければ、逃げ続けて自分で自分を潰して終わると思った。
 その部分だけは、あの頃から鷹羽は馬鹿正直で(いさぎよ)く、思い切りもよかった。覚悟を覚悟できていた。
「弘は?」
 少しだけ首を傾げるような仕草で綾野が鷹羽の瞳を覗き込む。なんだか無邪気な子どもみたいに見えて、鷹羽は小さく笑った。
「弘君が対象になるなら、きっと今はない」
「そう――よ、ね」
 何か、思ったのだろう。
 綾野はまだ自分を(つか)みきれていない。赤ん坊のようなものだ。恋に届かなくても、恋より激しく無心に求めて泣き叫ぶ。
「そのあとご両親とどうなったのか訊いてもいい?」
「治せないならお前なんかもう息子でもなんでもないって家放り出されたよ」
「病気じゃないじゃない。病気だとしても差別だわ」
「そう思ってくれないひとの方が多いんだ。僕は恵まれてる」
 彼女に自身の性指向を勇気も抵抗もなく打ち明けられるのは、想っている相手が同じだからだ。心の色に多少の違いはあるけれど、たったひとりが弘だという点で綾野と鷹羽には僅差(きんさ)もない。
「放り出されるまでの間ずっと責められ続けて、毎日続いて、覚悟してたのに苦しくて――ほんとうに、死にたくて。世界のほとんどが僕にとって恐怖と僕に対しての侮蔑(ぶべつ)と軽蔑で出来てると思った。刃物を探して手首に当てるのも面倒だった」
 ほら、と左腕を綾野に見せた。綾野は数秒じっと見つめて、
「……言われないとわからない。気づいても不慮の事故の怪我の(あと)かくらいにしか思えない。縦だし」
 正直な顔でさらりと言うものだから、おかしくなって軽い笑い声を上げてしまった。
 笑った声の明るさに、自分がどれほど変わったのかを思い知る。
「綺麗に治るのね」
「新陳代謝が活発なんだ」
 適当なことを言った。だっておかしかったから。景色が美しくて世界が眩しかったから。
 おもしろいことが散らばっているから。
「自分の爪で引っ掻いたから縦なんだよ。傷つけようとして自分で腕を引っ掻こうと思ったら、多分横にはやらない」
 事実、鷹羽の傷痕(きずあと)は縦に長い。腕の内側、(ひじ)から手首にかけて走っている。
「爪短いけど。伸ばしてたっていうこと?」
「短いよ。空手やってるし、危ないから。……今思うと、すごい力で引き裂いたんだなあと思う」
「それを見て弘が泣いたのね」
「うん」
「ぎゃんぎゃん泣いたのね」
「うん。癇癪玉(かんしゃくだま)が爆発した。責任者が僕だから偉そうなことは言えないけど、あの泣き方には驚いた」
「泣いたのは弘の勝手でしょう」
「冷静な判決だね」
「取り柄なの」
 弘の泣き方はひどかった。まさに癇癪玉の大爆発というか暴発で、普段の彼女がおっとりとにこにこしている分余計に際立って鷹羽は慌てた。どういう経緯で自傷の告白をしたものだかは覚えていない。誤魔化(ごまか)しきれなかったのは確かだ。が、そんなあれこれも、綾野(いわ)くのぎゃんぎゃん泣きを前にして、ものの見事に砕け散ってしまった。
 謝ったのは馬鹿なことをした自覚があったからだ。
 馬鹿な行為で弘を泣かせてしまったと思ったからだ。
 確かに泣いたのは弘の勝手かもしれないが、鷹羽には弘の涙はすべて(とうと)く重かった。
 ――君を愛してる。
 はじめて弘に言った。
 それ以外の言葉など何もなかった。
 ――鷹羽くんのことが大好きだから、わたしを大事に思ってくれてるなら、鷹羽くんも自分のことを大切にして。
 救われた。
 崖から落ちそうになっていたのに、――落ちようと思っていたのに首根っこを掴まれて引きずり上げられ目の前で泣かれた。
 自分の不誠実と無力、勇気のなさを痛感した。
「名前を呼びたかったんだ。でも、女の子を呼ぶのに慣れてなくて……どう呼んだらいいのかわからなくて困ってたら、弘君が」
 ――呼び捨てにしてくれていいよ。呼びにくかったら使い慣れてる敬称をつけるのでもいいし、何か渾名(あだな)でもいいよ。
「『(くん)』しか思いつかなかった」
「色々と焦ってたのね」
「その上困ってた。名前を呼んでもいいかっていう出来事のすぐあとに僕がその馬鹿な行為に及んだし」
 すると、綾野が少し止まった。
「馬鹿な行為の前に呼んでもいいかって言ったんじゃないの?」
「そう言ったのはね。僕は弘君を呼べずにいた」
 本当は、性別だけが理由ではない。はるかに後ろ暗い理由があった。
 脆弱(ぜいじゃく)さと卑怯を八代に重ねていた自分の影が、彼女を遠ざけていた。ジレンマに戸惑い、同時に心細くもあった。弘に触れたいと思うのに、彼女が差し出してくれた手を握れないのだ。
 ――鷹羽くん。わたしのこと呼んでみて。弘君って呼ばれたことないから、どんな感じか知りたい。
 人懐っこい笑顔で向けてくれたあの誘いは無自覚だったのだろうか。今でもわからないけれど、弘の笑顔と言葉は一歩を踏み出す確かな理由になった。
 ほんとうの意味で親しみをこめて女の子を呼ぶのははじめてだった。笑いも出ないほど勇気が必要で、
 ――弘の名前を口にした瞬間、涙が(こぼ)れそうになった。
 そうしてやっと、名前で呼べるようになった。
 綾野はといえば、弘に直球を投げられた。呼んでもいいかと律儀(りちぎ)に確認を取られ、否定の言葉もないままここまで来た。綾野に向かって、綾ちゃんなどという甘ったるい呼称で呼びかけるのは未だに弘だけだ。
 綾野も、弘を呼ぶのに時間がかかった。
「仲良くなれるような気がしてきた」
 ほとんど棒読みの言葉だったけれど、鷹羽も同感だったから笑うしかない。
「僕もそう思う。……弘君からの距離も、多分同じくらいだと思う」
「……あたしが傍にいるんじゃなくてもいいって思ったんだもの」
「僕も。弘君が笑ってるから」
 楽しそうに草花の手入れをして、嬉しそうにその日あった出来事を聞かせてくれて、手を繋いでくれる。
 一緒に帰ろう、と隣を歩いてくれる。
 いちばん近くにいるのが自分じゃなくてもいいと思ってしまった。狭い(かご)に押し込めて、どこへも行かないよう捕まえていたいと思えなくなってしまった。
 あの温室だって鳥籠(とりかご)にはなり得ない。今も弘は弘の意思で自由に出入りしている。
 幸福は自由を奪い閉じ込めて()でるものではないと、鷹羽も綾野ももう知った。
 だから籠はいらないし、遠くにいてもいい。
 ――でも、寄ってきてくれたら。
 ひとときのことでも飛んできてくれたら、肩で休んでほしいと思う。寒いときはてのひらで包んであたためて、甘いパン切れを差し出すから、笑顔でありがとうと言ってくれたら嬉しい。

 ――ありがとうと言いながらキスしてくれたら。

 ちょっと未練がましく思ってしまった下心はご愛嬌(あいきょう)だ。それに、
 ……誰にも内緒だから。

 だからどうか、許してください。







 (not) end.

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