青い鳥の居場所  |  next   

幸福な王子の臓とツバメのこころ






 次子(つぎこ)の描く絵は抽象画のみだ。細密でもなく精緻(せいち)でもないが、極めて繊細で、触れれば温度を感じられそうだった。
 温度はいつもあたたかい。
 けれど、色は例外なく寒色でまとめられている。寒色を好んで使う――という表現は、適切ではないだろう。描くために必要な色が寒色なのだ。好きだから、という感情が先に立っているわけではない。とはいえ、これは次子本人に確認を取ったわけではなかった。鷹羽(たかは)が勝手に思っているだけのことだ。
 次子の絵を見るのは決まって何か――たとえば美術の授業だったり絵画コンクールだったり、プライベートではない場所だった。だから、鷹羽が目にした次子の絵の数など、ごく(わず)かしかない。
 いつも寒色だった。
 暖色が使われていないわけではない。補色には入っている。けれど、どこまでいってもあたたかい色味は補うものでしかなく、メインになっていたことはなかった。
 寒色というからには、寒い、冷たい、涼しい――そんな連想をしてしまう絵になっている筈だ、と思う。それでも、冷たい、と感じたことはなかった。あたたかい気がする。
 有彩色は寒色、無彩色は白。
 白といっても真っ白ではなく、ほんのりと色がついている。興味のないものは当然、興味があってもそれと知って注意していなければ見過ごしてしまいそうな色だ。純白でない以上、専門的には無彩色ではないのかもしれない。そのあたりの細かい部分については鷹羽はまるきりわからなかった。
 選択科目として美術の授業を受けているとはいうものの、鷹羽に芸術的なセンスはない。ただ、――(ひろむ)に出逢って、新しいものに触れるのを恐れなくてもいいと知ったから、これまでまったく無縁だった美術を選んでみた。作品における技術は皆無で下手だけれど、楽しい。
 ところで鷹羽は変なところが抜けている。真面目だし、整理整頓もきちんとするし、掃除洗濯も好きだ。忘れ物がないのかも確かめるのだが――抜けている。
 あまり人目につかない部分だから知っている人間が少ないというだけの話で、鷹羽には結構うっかりが多い。
 今日もうっかり、美術室に絵の具道具一式を忘れた。
 ペンケースだとか転がってしまった練りゴムだとか、そんな細々したものではなく、潔く一式まるまる忘れた。勿論(もちろん)、普通ならつい忘れるような大きさでもないし、重さでもない。
 でも忘れた。
 だから、昼休みに取りに戻ってきたのだ。放課後になれば部活がはじまるし、そうなれば美術部員に迷惑がかかってしまう。大急ぎで取りに戻って、大急ぎで教室に帰れば、パンのひとつふたつは食べられる筈だ。
 成花(せいか)第一高校の歴史は古い。増改築が繰り返されていて間取りがおかしく、ある教室に行くために全然関係のない教室を横切らなければ辿り着けなかったりする迷路のようになってしまっている。美術室は別棟で、教室からは離れていた。
 美術室は薄暗かった。外が明るいからだろうか。懐かしいような、記憶が遠ざかり(さかのぼ)っていくようなぼんやりとした影に包まれて、静寂ばかりが落ちている。
 置きっぱなしになっていた道具一式を回収して、ふと視線を転じると、鷹羽が授業中割り当てられている六人掛けの机の窓側にスケッチブックが置いてあった。
 ――スケッチブック、ではないらしい。
 表紙に、クロッキー、とアルファベットで書かれている。
 気がつかなかった。表紙に殴り書きのように()(ばち)な文字で、有馬(ありま)次子と書かれてもいた。忘れ物というわけではないだろう。彼女は選択科目は確か書道の筈だ。
 勝手に見るのはマナー違反だ。不躾(ぶしつけ)だ。わかってはいたが、気がつけばそろりとページをめくってしまっていた。
 これまで見てきた数少ない次子の絵に、よくはわからないものの親しみを感じていたから。
 表紙をめくった先の紙は乳白色(にゅうはくしょく)で、しかも薄い。ぺらぺらだ。
 美術を選択したから、鷹羽も基礎一通りの道具は持っている。今手にしているのは油彩画のセットだ。ここのところ、授業では静物画を描いている。
 ぼんやりと思い出すと、言われてみれば確かにクロッキー帳なるものがあった。が、美術教諭が変わり者なのか、基礎に使われると思われるそれを使った記憶がほとんどない。作品はいつもほぼぶっつけ本番だ。お題は出してくれるが、あくまでお題を出してくれるだけで、粘土だのイラストボードだのをほれと渡された記憶しかない。
 クロッキー帳。厳密にはどういった用途に使うものなのだろう。クロッキーという単語に該当する日本語がぱっと出てこない。下描きをするものなのだろうか。練習をするものだとか?
 次子のそれは、教室の隅に置いてある有名な像のレプリカを写しとっていた。どれもかたちを的確に(とら)えて線に迷いはなく、整えられた絵だ。これが素描というものだろうか。
 鉛筆で描かれているように見える。それもかなりやわらかい芯のものだ。でも、――薄っぺらだった。味も温度もなくて素っ気なく、次子が気を入れて描いているようには感じられない。とても整っているのに、それだけのものでしかなかった。
 ――人間に興味がない――のだろうか。
 少し違う気がした。それが何、と具体的に表現し得る言葉を鷹羽は持っていなくて、結局、なんとなくそんな気がするという非常に曖昧(あいまい)な結論しか出せない。
 遥か遠く、鳥の声が高く聞こえた。窓の外の木々が風の疾走(しっそう)に従い、陰影が揺らめく。
 数度見ただけの次子の絵。寒色ばかりなのにあたたかい気がする絵。それはときに一色だけのグラデーションであったり、隙なく塗り潰された画面に勢いよく走る一筋の線であったり、蛍が最期の光を(とも)すように広がった円が浮いているものであったり、細い縦線がどこともわからないところへ落ちていっているものだった。絵具の(にじ)みに任せただけのようなものもあった。
 何か物質的な、一目でこれとわかるようなものが紙に落ち着いていたことは、鷹羽が見ているものの中にあったことは一度もない。
「いい趣味してんな一色(いっしき)。覗き見か」
「あ」
 不意の声に驚いてふり向くと、美術室の扉に手をかけた次子が立っていた。相変わらずリボンタイは結んでいないし、ブラウスの釦もふたつ外したまま。不機嫌でもなく上機嫌でもない、感情の読み取りが困難な涼しい顔だ。
 ――八代(やしろ)と似てる。
 無論(むろん)顔立ちの話ではない。波の立たない(おもて)、淡白な言葉やどこか無関心な眼差しが。
「ごめん、有馬さん」
 は、と気づいてクロッキー帳から手を放した。風に(あお)られそうになるページを丁寧に押さえながら表紙を閉じる。
「ごめん、その、――」
「謝罪なら聴いた。最初に謝ったんならそれで十分だろ。ただの物好きでひとのもん覗くやつじゃないのはツラ見りゃわかるよ。謝っても足りないと思うなら、ここに至るまでの明確な経緯でも自分にとっての正当性でも、なんでもいいから最低限でも申し開きをすればいい」
 短い繊細な針金の髪を揺らして歩いてきた次子が、クロッキー帳が置かれている机を素通りして窓辺に向かう。
「……勝手に、見て――……」
「まあ許可してないからな。そうなるだろうな」
 隣に並ぶかたちになったが、次子は鷹羽を見ようともしない。これまで不思議と、次子に苦手意識を持ったり居心地の悪さを感じたりしたことはなかったのに、妙に緊張しているのは八代を思い出してしまったせいだ。あまりに単純な思考回路と抽斗(ひきだし)の少なさに自分でも呆れる。
「まあ忘れっぱでほっといたあたしにも十分責ありだが」
「でも有馬さん、あ――あ?」
 どうにも間が持たなくて、叱られてもいいからもう一度謝ろうとしたとき、次子はぱちりと音を立ててマッチを擦った。
「……有馬さん」
 眉を(ひそ)めて言うと、やっと鷹羽を見遣った次子がにやりと笑う。
「口止め料だ。見逃せよ。盗み見したの黙っといてやる」
 未成年の喫煙という部分だけを見れば次子の行為の方が明らかに問題だが、悪いことをしたという点においては変わらない。鷹羽がやったのはプライバシーの侵害だ。
「……うん」
 (うなず)いて、それから――
 ――足が、動かない。
 あまりにも静かだからだ。居心地の悪さも緊張も、きっとあのマッチの擦れる音と一緒に(はじ)けて消えてしまった。落ち着いてしまえば、次子は隣にいようがいまいが変わらないくらいにその場に馴染(なじ)む。
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