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 机の上に置かれたままの、鷹羽の手前に置かれたままの、次子のクロッキー帳。寒色を使ってあたたかい絵を描く次子の、ただの作業が詰め込まれて()じられているだけの一冊。
 鷹羽は次子を何も知らない。弘を介さない、直接の彼女をまったく知らない。
「言いたいことがあるなら言えよ」
 まるで吸い込むような音をさせながら煙を吐き出す次子の声に見透かされたような気がして、戸惑うと同時に躊躇(ためら)う。ささやかに湧いた疑問だが、ささやかというのはあくまでも鷹羽のものさしに()る。次子にとっては重大な質問になってしまうかもしれない。訊いていいものなのかどうか迷った。
 美術室の後ろ、割合にして三分の一ほどは美術部の制作中の作品が置かれている。常にカーテンが引かれ、ベニヤ板で無理矢理作ったようなパーテーションで区切られている暗がり。鷹羽はそこにある大きなキャンバスに眼を遣った。今は画布がかけられていて、何が描かれているのか知れない。
 ただ、一際大きいそれが次子のものだということは知っている。
 一年生の中でひとりだけ、部長に選ばれた者が百号のキャンバスを与えられるというのだ。文化祭における美術部最大の目玉で、学校見学を兼ねて文化祭に訪れた去年、鷹羽も見た。
 が、どんな絵だったのかはまるで覚えていない。大きさに驚いた記憶しかなかった。手が届くほどの間近にあるのを見たときの百号がどれほど大きなものかは想像しにくかったが、見られる範囲に同等以上のものはない。抜きん出て大きい。
 あんな広い場所に、
 ――きっと真っ白な広い場所に、どんな色を落として重ねていくのだろう。
 鷹羽は美術に関して(うと)いから、どんな名画を前にしても、色が綺麗だなとか細かく描いてあってすごいとか、そんな感想しか持てない。
 でも、何故だろう。
 次子について知っていることなど片手で足りるほどしかないのに――彼女はいつも、弘を描いているような気がする。
 弘の温度や声や空気、想い出。
 次子の絵に覚える親しみの正体。――よくわからないけれど、なんて嘘だ。
「いつも、美術室にいるね」
 ぽつん、と(こぼ)れたのはそんな言葉だった。どうしてだか寂しいような色合いの。
 次子は煙草を(くわ)えて窓の外を見たまま、視線だけを投げて寄越す。
「ご挨拶だな。授業には出てるよ。時々」
「時々なんだ」
 なんだかおかしい。控えめながら、思わず笑ってしまう。
 言葉ほどに出ていないわけではないのだろう。そうでなければ進級ができない。彼女が真面目に勉強に取り組んでいるところは見たことはないが、テストは常に平均点以上だ。恐らく、できるできないではなくて、単に関心が持てないのだろう。
「……家には、いづらいからな」
 鷹羽が尋ねたようにぽつんとした声色で、答えが返ってきた。鷹羽は面を上げる。
「仲が、……いいとは言えない?」
「いや? 試金石(しきんせき)にもよるだろうが、一般的には家族仲はいい方だと思うよ。実際、いつも仲いいですねとか言われてる」
「でもいづらいの?」
「疲れる」
 よくわからない。
 仲がいいのに一緒にいると疲れる家族とはどういうものなのだろう。想像がつかない。
「原因はあたしだ。家族にはない」
 続ける次子の横顔はやはり無関心で、遠くを見ていて、今会話をしているこの場に心があるのかどうかも(つか)めない。
「夫婦仲は、まあいいと言っていいんだろう。笑い合ってた直後に喧嘩(けんか)したりもして、多分珍しくない関係なんじゃないのか。喧嘩っつっても討論に近いけどな。大抵母親が勝つ」
 ――母親。
 距離のある言葉だ。
 外に出ているのだから、この歳にもなれば、父、母と称することに違和感はない。けれど、友人と――現実的にはもう少し異なる関係性ではあれ、同カテゴリに分別できる相手に対して、お母さんではなく母親と呼んだりするものなのだろうか。母ではなく、『母親』と。
 鷹羽の母に対する呼称は、母であり母親だ。遠いからだ。嫌悪しているわけではないし、反抗してもいない。ただ、言葉通りに遠く、(した)う気持ちが湧いてこない。
「有馬さんはひとりっ子?」
「妹がふたりいる。二歳ずつ離れてる。何をしてやってるわけでもないんだけどな、なんでだか(なつ)いてくれてるよ」
 感情が読みとりにくいから仕方のないことかもしれないが、彼女の声からは、嬉しいだとか、かわいく思っているだとかは感じられなかった。
「旅行に行くとなれば必ず声をかけられるし、妹なんかは買い物に誘ってきたりもする。……仲良く見えるか?」
「見える」
「そうだろうな。両親もかわいがってくれてるとは思う。異論はない。妹と比較されることもないし、あたしひとり弾かれてるわけでも当然ない」
 でもいづらいんだ、と言った。
「なんでだろうな。その環境で育ってきてるんだから、いちばん馴染んでいていい筈のものなんだ。でも馴染めない。息苦しいんだよ。肌に合わない」
 鷹羽にとってもよくわからなかった。なんでだろうと次子は言うが、鷹羽も同感だ。とてもいい環境に思える。次子自身も愛されている自覚があるのに、両親や妹はどうやら(てら)いなく表現してくれているようなのに、彼女は苦しいと言う。
 いつの間にか次子の視線は外の風景へと――空へと戻っていて、少しつった涼しげな目もとが表情を変えた。少しだけ。本当に僅か。目を細める。
贅沢(ぜいたく)な悩みだろ。世の中には実の母親に飯ももらえずに餓死して、実の父親に熱湯ぶっかけられて殺される幼児もいるのにな」
 自嘲(じちょう)なのだろうか。彼女は淡々(たんたん)と話して真意が窺い知れない。
「でも、――有馬さんにとっては、悩みなんだろう」
 出過ぎた物言いだろうか。鷹羽に向いた次子が意外そうな顔をする。先ほどと同じ、本当に僅か目もとの表情が変わるだけ。
「悩みは、ひとと比較して片付けていいものじゃないって――」
「――弘に言われたか」
「教わったんだ」
 訂正すると、彼女のくちもとが微かに(ほころ)んだ。
 その表情は思いがけず綺麗なものだった。少女と女性の中間、未熟な諦観(ていかん)と成熟した純粋さがちょうどよく溶かされた、清らかで透明な混色だった。
 ――有馬さんはこうやって笑うんだ。
 美しいと思うと同じくらいに、痛々しさも感じる。どんなに未熟でも、彼女はもう何かを(あきら)めているのだから。諦めているのに、純粋さだけは確かに成熟してしまっているのだから。
 ただくちもとが綻ぶのを見ただけなのに、どうしてこうまで思ってしまうのだろう。(うつむ)いてしまう。
「ひとを描くことはある?」
 静かに尋ねると、次子は無愛想に応答した。
「ないな。描いたのは一度きりだ」
「弘君?」
「他の選択肢ねえだろ」
 そうだね、とくすくす笑って鷹羽は続ける。
「頼んだら見せてもらえる?」
「断る」
 答えも予想通りだ。また笑ってしまう。でも、笑いながら泣きそうになってしまった。弘を想うといつも胸が痛い。苦しみと似てはいるが決定的に異なって、いつだって甘く、呼吸もままならない。
「だから、有馬さんにはモデルは必要ないんだね」
 哀しくなってしまいそうだった。次子が何も答えないから。はぐらかすことも否定もされていないのに、疑いなく肯定と受け取れる。
 事実、次子にモデルは必要ない。
 見えない、触れられない、届かないものを描いている。届かなくていいものを描いている。だからモデルはいらない。見えず触れられず届かなくても、(まぶた)を閉じる必要すらなくそこにある。
 空気と同じだ。
 空みたいだ。
 いつもいつも清らかに晴れてあたたかい。見上げれば(まぶ)しくて涙が零れそうになってしまう。やさしく降る光がすべてを照らして、影さえ美しくきらめかせる。
 次子は微かに息を落とし、瞼を閉じた。瞳に入ってくる光が痛かったから。
「――一色(いっしき)。悪かったな。謝るよ」
 溜息(ためいき)のような声だった。少し、低い。
 次子の独り言のようなそれを聞いて、鷹羽の脳裏に唐突に水彩絵の具が(ひらめ)いて走った。
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