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 はじめて触れたのは小学生のとき、学校から支給されたものだ。ずっと意識してなどいなかったけれど、水色は『そらいろ』と書かれていた。誰がはじめに名付けたのだろう。水色という言葉があるのに、空色と表現した。
 どうしてこのタイミングでそんなことを思い出したのか、鷹羽が自問したのは一瞬だった。
 次子はいつも寒色を使う。それであたたかい絵を描く。抽象画ばかり。モデルはいらない。
 それはきっと、哀しいくらい澄んだ心の震えだ。(はかな)い花びらのやわらかさなのだ。鷹羽がそうであるように、薄い硝子細工(がらすざいく)に触れるにはとても勇気がいる。
 鷹羽は、弘が画用紙一面を真っ青に塗って空を描いたことがあると知っている。アルバムに丁寧に綴じられていた四つ切り画用紙は、疑いたくなるほど本当に青かった。
 だから次子が見ているのは水ではなくて、空なのだ。絵の技法なんて何も知らない子どもが元気よくぶちまけて、楽しさだけで色を広げたような、
 ――輝き、そのもの。
「お前はものが見えてないんじゃないかと思ってた。見ないようにしてるとも思ってた。でも、違ったな」
 どきりとした。
 言い当てられたと思ったのに、彼女の中ではその説は否定されてしまったらしい。
「案外よく見てる」
 はじめて言われた。
「あたしが今から言うことは余計なお世話だ。迷惑な口出しだ。その上であらかじめ断っとくぞ。あたしが訊くことじゃないってことくらいわかってる。でも訊くのは、お前も宇佐美(うさみ)も弘を好きだからだ。宇佐美がどうしても弘を嫌いになれなくて、お前はきっと自分から動いちゃいけないってわかってて、弘は(うわ)(つら)のことは全然わかってないのに、一番わかりにくい部分を勘で捉えてると思うからだ。言い訳は以上」
 よく見ているのは次子だ。つらくならないのだろうか。
 誰も動けないのだ。そう、鷹羽と伊織(いおり)だけだったら話は一瞬で済む。一瞬の筈の時間が果てしなく思えて怖いのは、鷹羽と伊織の間に弘がいるからだった。
「……宇佐美のことは見てるか」
 なんの関心もないように話すのに、次子の口数少ないその内容は、例外なく誰かのものだ。自分ではなく、他の誰か。同じくらいの関心を持って、同じくらいの思い遣りで自分も大切にすればいいのに、常に一歩引いたところに立っている。自分自身とすら並んでいない。そうして、下がっている分だけ広くなった視野に入る誰かの痛みや涙に気づき、自身が持っている精一杯をひっそり贈る。
 それを誰にも気づかれないなんて。
 見返りを、求めないだなんて。
「……なんとなく。自意識過剰とは思うけど、世間一般の定説と照らし合わせると」
「当たってるよ」
 曖昧に微苦笑するしかできなかった言葉を(さえぎ)られた。
(こた)えられない」
「お前の責任じゃないだろう」
 羞恥(しゅうち)も不安も感じない。次子が知っているのは当然のような気がした。
 確かに鷹羽の責任ではない。性的な指向は選び取れるものではなく、宗教や世間、社会の枠組みに否定されても努力で変えられるものではない。けれど、少数派に対する知識も容認も広がっているとは言い難いのが現実だ。
 それでも、もしも伊織に好きだと言われたら、そのことを告白して断ろうと思う。
 勇気が必要だとは思わなかった。宇佐美さんは泣くだろうか、という心の揺れがあるだけだ。勇気がいるのはそんなところではなく、彼女の想いに直接触れるところに必要だった。
 鷹羽にとって女の子はいつだって壊れもので、細心の注意を払って触れてさえ容易に砕けてしまう、幼い頃の貴重な砂糖菓子のようなものだから。
「――有馬さんはそうやって、……いつも、それぞれに少しずついろんなものを――」
 ――どう言ったらいいだろう。
 告げる。
 教える。
 いくつかの候補はすぐに却下され、ほぼ同時に言葉が音になって零れた。
「――届けるんだね」
 告げるだとか、教えるという表現ではそぐわない。告げたり教えたりすれば、差出人の完全な匿名(とくめい)は不可能になる。
 はっきりと意識された言葉ではなかった。不意にとしか言えないようなほぼ無意識の言葉で、だから一層、少なくとも鷹羽にとっては自然なものとして身体に馴染んだ。
 ――届けるというかたちなら、気づかせないことも可能なのだ。
 鷹羽が儚く言うと、素っ気ない声が放られてきた。
「意味がわからん」
「わかってるくせに」
 不器用なやさしさで自身の金箔(きんぱく)()がしていくような次子に気づいて、指先が震えた。誰に気づかれなくても構わないという根本が、弘と似ているから。
 弘は無意識に金箔を落としていく。風に(さら)われてどこかへ飛んでいくのにも気がつかず、身を(けず)っているとも思っていない。自分が誰かを救っているなんて、想像もしていない。それでも自分であちこち飛び回って、小さな――宝石、なんて洗練されたものではない。大切にとっておいたひと欠片(かけら)のチョコレートや綺麗な色の飴玉(あめだま)、包装紙がかわいいラムネ菓子だとか、そんなものを一生懸命ポケットから出して分けてくれる。
 次子は、金箔を剥がすという技術を心得(こころえ)として持っていて、()せる、ということなのだろう。
 だから次子が分け与えるのは、むこう側が透けて見えるほどに薄く伸ばされた技の(すい)の金であり、もっとも美しく輝くにふさわしいかたちにカットされた宝石だ。
 そして次子は自分で直接届けない。何せ、彼女の(かたわ)らには働き者の(つばめ)がいる。「行ってこい」と命じれば、笑顔で「いってきます!」と飛んでいく小さな燕。先方に失礼がないようにきちんと燕尾服(えんびふく)を着て赤い蝶ネクタイを締め、時折葉っぱに引っかかってよろけたり、着地を失敗して転んだりしながらでも一生懸命に飛ぶ燕が。
天賦(てんぷ)の才ってあれだな……」
 次子がほろりと零したから、同じことを考えていたのだと知った。そして、彼女たちの間に会話が少なくても足りる理由も、小鳥の羽根先に凍えたつま先を(かす)められたようにわかった。
 次子は、弘の前でなら泣くのだろうか。
 そうだといい。
 次子がすうと吹いた煙が風に乗って揺らいで消えていく。幼い空色のキャンバスの遠く、鳥が飛んでいる。きっと(とび)だ。この辺りには鳶が多く飛んでいて、季節になれば(たか)が渡ってやってくる。
 燕ならいいのに、と思う。
 鷹ではなくて燕がいい。
 美しい、ささやかで(とうと)い命そのものを届けてまわってくれるから。
 早く春が来るといい。
 やってきた燕は、どんなに季節が(めぐ)っても、去っていったりしないから。






 (not) end.

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