幸福な王子の心臓とツバメのこころ  |  next   

人魚姫の短






「ねーえ」
 ちょっとつまらなそうな、どうでもいいような声で、伊織(いおり)綾野(あやの)に呼びかけた。
 なんだか憎たらしい。
 天気が良すぎる。景色が、世界が綺麗すぎるのだ。
 小春日和、久しぶりにアルバイトもなく暇を持て余していた伊織は、これまた珍しく塾のない日だった綾野に時間と都合と心境が一致したので、学校に居残って身繕いをしていた。具体的には、爪を磨いている。
 普段は身繕いの最中など誰にも見せない。自身が(うらや)まれ(うと)まれるほど容貌が整っているのは知っているが、だからこそ準備段階にあるところは見られたくなかった。化粧をすればとびきりかわいく、或いは美しくなれる自信はあるし、すっぴんでもなんら問題ない。素が群を抜いているのだから当然だ。でも嫌なものは嫌だった。
「綾野は、(ひろむ)君はもういいの」
 疑問符をつけるという言葉の行為すら億劫(おっくう)で、なんだか本当に面倒くさくて退屈だ。伊織は暇が苦手だった。年がら年中、理由はなんでもいいから忙しくしていたい。まったり、とか、ゆったり、を伊織は好まない。
 周囲が本で囲まれている図書室。暇を潰すにはもってこいの場所なのだろうが、生憎(あいにく)と伊織は読書にまったく興味がない。
 弘君も綾野も、なんであんなに本を読むんだろう。ちっちゃい文字ばっかり並んでるだけで面白い絵もなくて、ひたすら続く活字がずっしり重たくて分厚い。次子(つぎこ)は読んでるんだかどうだか知らないけど、弘君と喋っているのを見てると、なんとなく読んでいるような気がする。一色(いっしき)君はどうなのかなあ、読んでるのかな。頭いいから読んでるのかも。
 疑問と独断と偏見をつらつら考える。
 窓越し、階下の植え込みを弘が手入れしている。ひよこ色のエプロンをかけて、レースのリボンが巻かれたつばの広い麦藁(むぎわら)帽子をかぶって。
 麦藁帽子は、綾野が弘に贈ったものだ。誕生日に弘が綾野に浴衣を縫って贈った、そのお返し。綾野が、こんなことしてもらったことない、どうしよう、と気の毒なくらいに情けない声で困惑していたから、伊織が返礼を提案した。買い物にも付き合った。ただ麦藁帽子を買うだけなのに、綾野はひどく緊張していた。よく覚えている。誕生日のプレゼントにお返しを贈るのも妙な話と思うが、いっぱいいっぱいだったらしい綾野は疑問に思うことすらしなかったらしい。
 弘に手渡すときも動揺していて、「ありがとう! うれしい」ときらきら笑った弘を見て頬を赤らめていたことも覚えている。
 かわいい、と思った。
 綾野はあまり表情が変わらない。嬉しいんだか哀しいんだかわからない。いつも不機嫌そうに、憂鬱(ゆううつ)そうに見える。怒っているときだけははっきりとわかるのだから、損なんじゃないかなあと伊織は考たりもする。
 長い黒髪は綺麗に真っ直ぐで、面差(おもざ)しだって綺麗だ。静かに凛々(りり)しく整った顔立ちをしている。要するに美人だ。伊織は綺麗なものが好きだから、綾野の容貌は最近加わったお気に入りだ。笑ったらどんなふうになるんだろう、と想像して遊ぶ。
 綾野が表情を動かすのは、決まって弘に関しているときだ。伊織が見る限りでは、大抵照れている。ほんの少しだけくちもとを(ほころ)ばせることがあるかないかといったところ。
 大好きなんだなあと思って、美人なのにかわいい、と思う。
 伊織は先ほどから丁寧に爪を磨いている。校則に引っかからない程度に目立たない淡い色のマニキュアを塗っているのだが、塗るとしばらく何もできなくなってしまうので、家に帰ってからでないと無理だ。時々甘皮を取り、爪を削ってかたちを整える。
「小さいとき図書館で絵本を読んで」
 独り言のように、綾野が話しはじめた。
「どうして人魚姫が王子様を殺さないのかが不思議だった。姉姫たちが長い髪を対価にして手に入れてくれた短剣で、王子様の心臓を貫けば――その血を足に振りかければ人魚に戻れて、海に帰れたのに」
 姉姫たちもそれを望んでいたのに。だから自慢の黄金のような髪を切り落としたのに。
 人魚姫はそうしなかった。
 美しい歌声と引き換えに人間の足を得、歩くたびに千の針を踏むような激痛に耐えてもなお手に入れられなかった王子様の愛情。それでも人魚姫は王子様を恨まなかった。
 愚かなのはどちらなのだろう。
 海を捨てた恋に気づかなかった王子様と、地に足をつけた愛に破れた人魚姫と。
 綾野の瞳には苛立(いらだ)ちも悲嘆(ひたん)もなく、声も表情も()いだ海のようだ。穏やかだから、伊織はつらくなってくる。
「そういう、ものなんだと思う」
 諦めとは違う。
 失ってもいない。
 ただ大切に、小箱にしまってあるだけ。
 眼前に、約束された安寧(あんねい)を差し出されても受け取れないのだ。夢中で追いかけるものなのだ。人魚姫がそうだったように、綾野もそうなのだ。
 自分から失くさなくていいと知ったから、今はもう恐怖から遠い。
 伊織は爪を磨く手を止めた。
「じゃあ、あたしのは恋じゃないかもしれない」
 想い返してほしい。好きだと言ってもらいたい。
 ――泡になって消えたくなんかない。
「綾野みたいに思えない」
「あんたはあたしじゃないんだから、そうする必要ない。――伊織は、弘と一色君、どっちの心臓が欲しいの?」
 かつて弘の頬を裂いた、伊織の爪に仕込まれた短剣。それに染み込んだ彼女の鮮血は、一瞬の間に伊織の身体を巡り浄化して、涙となって(あふ)()た。
 いつの間にか持っていた短剣の対価は、後払いだったのだ。
 そのことに今気づく。
 どうしてだろう、気づくのはいつだって今だ。過去でもなく、まだ来ていない、来るのかどうかもわからない時間ではなく、今だ。
 磨き上げられた爪。仕上げのマニキュアを塗っていないから、伊織としてはちょっぴり気に入らない。でも、さっきよりずっと綺麗になったと思う。照り返しも素のままにしてはいいし、かたちは申し分ない。桜の花びらを宝石にしたみたいな薄紅色で、これもなかなか悪くない。
 伊織は立ち上がると、制服のスカートのプリーツをきっちりと確かめて、(しわ)をのばした。本当はアイロンをかけたい。
 ポーチから取り出したリップで唇を整える。携帯用の鏡を見て、前髪の一筋にまで気を配る。
 ――よし。
 あたしはかわいい!
「綾野、リボン直して」
 頼むと、綾野は席を立ってわざわざ傍らまで来てくれて、制服のリボンをきちんと結び直してくれた。
「ありがと。――ね、綾野」
 つつつ、と後退する。
「あたし、かわいい?」
 小さなレディが両親に向かって、新調したばかりのワンピースを披露するみたいにくるりと一回転してみせる。校則を遵守(じゅんしゅ)しているとはちょっと言い難い短いプリーツスカートが、マーガレットのようにひら、とまわった。
「うん。かわいい」
「弘君より?」
「弘の次に」
 答えると、伊織は冗談めかしてぷうっとふくれた。
「んもう! こういうときくらい嘘ついてよ。……一回でいいから」
 伊織の明るい口調や仔猫みたいな愛嬌(あいきょう)、何より透明なその表情が、綾野の胸に迫った。
 とても冗談にはできない。
 嘘なんかつけない。
 だって、伊織が人魚姫の真実(ほんとう)を知ってしまったことがわかるのだ。綾野もそうだったから、わかってしまったのだ。自分も泣いてしまいそうなほど。
 だから、無理矢理微笑んだ。
「今のあんたは、最高にかわいいわ」
 これなら嘘じゃない。
 哀しいけれど、苦しいけれど、隙間のない真実だ。
 ほんの(わず)か、注意していなければ見過ごしてしまいそうなほどに少しだけ、伊織の猫のような瞳が揺れた。
 振り払うようにして、伊織はぴしっと敬礼する。
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