人魚姫の短剣  |  next   

ずきんにおやすみ






「結婚を申し込もうと思います」
 晴天の霹靂(へきれき)
 それは休日の教室に落ちた。
 なんだかんだと(にぎ)わしく過ぎた正月の次にバレンタインデーが来て、そのイベントも案の定騒がしく過ぎた。
 気がつけばあと(わず)かで高校一年生が終わり、進級する。暦の上ではもう春とはいえ、風の強い地域であるここは未だ体感気温が低い。それでも木々がぬくもっているのが視覚でわかった。
 よく晴れた日だ。
 (ひろむ)から一週間も前に「大事なお話をしたいから」と言われていたにも関わらず、それはやはり、どの角度から考えても晴天の霹靂以外の何ものでもなかった。
 鷹羽(たかは)次子(つぎこ)も午前中は部活だったから彼らに合わせた時間だ。綾野(あやの)勿論(もちろん)、普段は「バイト! 休みの日が空いてるわけないじゃん!」と舌を出す伊織(いおり)でさえも何故かおとなしく頷いた。伊織の勘は鋭い。ときに野生の獣並みに。
 だから今は午後だ。気持ちのいい昼下がり。
 でも、穏やかではない。
 桜組の教室の後ろ側に椅子だけ集めて輪になって、それぞれ座って――弘だけ立っている。椅子はあるが最初から彼女は座っていない。ずっと立っている。緩く握った片手をもう片方の手で包んで胸の前で抱いて、彼女にしては珍しく(うつむ)いていたから、誰にとってもめでたいと言える知らせでないことはすぐにわかった。
 俯いてはいても表情が悲愴(ひそう)ではなかったから、瞳の色に揺らぎがなかったから――
 ――何か決意したのだと、わかってしまった。それぞれが。
 そして聞かされたあの言葉だ。結婚。何を考えているのだろう。信じられない。しかも、申し込む相手はあの男だというのだ。正気の沙汰(さた)とは思えなかった。
「結婚って……意味わかって言ってるの?」
 口火を切ったのは伊織だった。生来の負けん気の強さが出たのだろう。だが、彼女には意外なほどに冷静な言葉と口振りだった。
 伊織はいつも華やいだ笑顔を弾けさせている花の(かんばせ)を一変させて、半ば唖然(あぜん)としてはいても真剣な眼差しを弘に向けている。
「結婚って、ふたりだけの問題じゃないんだよ? そりゃ最終的に判断して決断するのは、ほんの一部を除いて当事者だろうけど――どっちにしたって、ふたりだけのことには(とど)まらない」
 弘は静かに、黙って聴く。このように言われるのは、言ってくれるのはわかっていた。
「社会と直結してるんだよ。ただの、好き勝手にくっついたり別れたりできる恋人同士とは全然違うの。これ、成人してるとかしてないとかの話じゃないからね? あたしだってそれくらいのことわかるんだから、弘君がわかってない(はず)ないよね? ちゃんと、――本当にちゃんとわかって言ってるの?」
 伊織の声が次第に(にじ)んでくる。弘は穏やかに首肯(しゅこう)した。ほんの少しも動じることなく。
「うん。わかってる。……だから結婚なの」
「どうして……?」
 手の甲でくちもとを押さえた伊織の、猫のような大きな双眸(そうぼう)(うる)んだ。
「なんでいきなり結婚なの? 普通に付き合うんじゃ、恋人じゃだめなの? ――だって弘君、弘君まだ十六歳にもなってない……」
 そんな大きなことを、こんなに早く決めていいの?
 そう言った目から、(こら)え切れなくなったらしい涙が流れはじめた。こんなにも早く彼女の涙腺(るいせん)が緩んだのは、八代(やしろ)の指先を思い出してしまったからだった。喉元(のどもと)をなぞって(もてあそ)んできた闇の指先を思い出して、――今はもう、八代自身が哀しく痛い指先だとわかっているから涙が(こぼ)れた。
 八代は嘘をつく。ひどく残酷な、事実という名の嘘をつく。それは鏡に映った伊織の傷痕(きずあと)だ。
 伊織は泣いた。夕立みたいな大粒の雨が降る。
 いつもそうだ。
 伊織は感情表現が豊かだから、我儘(わがまま)なくらい思ったことを顔に出すから、泣くときも一生懸命泣く。見ている側の胸に鋭く突き刺さるくらいに必死で訴える。とても明快でわかりやすい。素直なのだ。
 疑いようもなく思い遣ってくれているのだとわかる。
「……恋人では、だめなの」
 言いながら、弘は一言の重みを思い知った。覚悟していた以上だ。泣かせてしまった事実を前にして、――確かにそれは予想していたことだったけれど、哀しくならないわけがなかった。
 ――恋人では、だめなの。
 理解できない、納得がいかない伊織は()(かえ)りそうになる。胸が詰まって苦しい。弘の口調はやわらかで、いつもと同じで、だからこそ届かない温度に不安になった。
 弘の言と声から伝わってくるのは、根底にある強い決意と研磨(けんま)された信念だ。でも、そんなものはいつのときも変わらない。彼女は伊織のように不安定な満ち欠けを繰り返す存在ではないのだ。仮にそうだとしても、弘は誰にも(さと)らせないだろうと思う。わかるのに届かないなんて、どうしてこんなに遠いのだろう。
「……どうして……?」
久我(くが)先輩は、きっと不安を抱かれるだろうから」
 静かな言葉だった。
 鷹羽の胸にそれは不意に大きく強く響き、ほぼ停止していた思考と共に、彼は打たれたように(おもて)を上げた。
 次子はポケットから煙草を出すと、相変わらずマッチで火を()けて(くわ)える。真っ先に(たしな)める弘が何も言わない。
 窓のむこうの晴れた空には、夢見心地の砂糖菓子が綿のように浮かんでいる。ふわふわと、ひとつずつ数えられる少なさだ。広がる青の範囲が圧倒的に多く、深く、そして澄んでいる。
 鳥が飛んでいる。きっと(とび)だろう。(たか)の季節は去ったけれど、(つばめ)が訪れるにはまだまだ早い。
「伊織ちゃんが言った通りだよ。結婚は社会的なものだから、隠すことができない。どうしたって社会や世間と繋がる。目に見える。――物理的に、とても大きな変化を伴う」
 次子は吸い込んだ煙を細く吐く。一応、そっぽを向いて。だってここにいる誰も、喫煙者ではないから。大体、それ以前の問題としてまだ社会にだって喫煙を許されていない。選挙権も持っていない齢だ。でもニュースで流れる内容くらいわかる。それなのに守られなければいけない。社会はそのようにつくられている。
無駄とは思わない。必要なことだろう。だけど時折ひどくもどかしいのだ。どうして自分はまだ子どもなのだろう。
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