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 子どもから大人になるまでの距離を知りたい。追いつかないのだ、何もかも。
 結果的に弘から眼を()らすかたちになった次子の視界の端に入ったのは、俯いている綾野だった。
 嗚咽(おえつ)もなく、震えてもいない。
 長い髪が床と綺麗に垂直になっている。顔も見えない。綾野の髪は本当に真っ直ぐだ。
 両腕を突っ張るようにして(ひざ)で上体を支えて(こぶし)を握り締めて。
 泣いているのは明白だった。
 ――落ちる涙も見えないのか。
 髪が長いのだ。そして、真っ直ぐなのだ。気の毒になる。伊織のように顔を上げて声に出して泣けばいいのに、弘がそれを見ても嫌悪も軽蔑(けいべつ)もしないと綾野は苦しいくらい知っているのに、しない。
 弘が綾野の涙に気づいていることなどわかっていた。伊達(だて)にいちばん長く付き合ってきたわけではない。酔狂(すいきょう)だったことも一瞬だってない。
 こういうときの弘が動かないのも知っている。
 自分なりに思いつくあらゆる角度から考えて、きっと知らないところでひとりきりで泣いて、みんなの前ではにこにこと笑って、傷つけることに哀しんで。
 それでも、と決めたことなのだ。
 その、決めたことを言っている。
 一度決めて、一度口にしたら、彼女はそれを(ひるがえ)さない。約束と同じだ。そして、口約束は紙より重い。
 そこまでわかっていて知っているのに、次子は泣けない。
 ――一滴の涙もない。
「いつでも解消できてしまう余地のある関係性は、きっと久我先輩はこわい」
 彼は、未来を怖いと言ったのだ。
 約束をするのが不安だと、果たす(すべ)を知らないのだと。
 思い出すと哀しい。ゆびきりを知っているのに、八代は誰かとゆびきりをしたことがないのだ。
 思い出すとほんの少しだけ、胸があたたまる。嘘をつく予告をしながらでも、彼はゆびきりの真似事をしてくれた。八代はただ、約束を守り、果たす術を知らないのと同様に、やさしさや思い遣りを表す方法を知らないだけだ。
 可能性だし、推測だけれど、信じられる。
 八代の手はいつも整えられている。彼の手は、葉や茎、(つぼみ)や花びらを傷つけてしまわないように、たったそれだけのためにいつも丁寧に整えられている。雑草という言葉も知らないような純粋さと、彼自身が何かの植物みたいに景色に溶け込むあの静けさ。
 ゆびきりの真似事をしたとき触れた彼の指先は桜の花びらより冷たくて、眠りのぬくもりよりもやわらかく、真鍮(しんちゅう)の針より鋭く痛かった。あのとき小指に感じた微熱は、八代の無垢(むく)一途(いちず)さだ。
 理由として充分に過ぎる。
 立ち上がりかけた伊織だったが、叶わず脱力するように椅子に腰を戻した。しばらく黙していた瞳から、新しい涙がぱたぱたと落ちていく。
「そんな……久我先輩のためだけの理由で結婚するの? どうして……」
「伊織ちゃんはどうして泣いてるの?」
 小首を(かし)げて、微笑んだ弘が尋ねた。その場にいる誰にとっても意外だった。弘は必ず相手の話を最後まで聴いてから話しはじめる。途中で(さえぎ)ることをしない。中途半端なところで切られたのははじめてだったから、伊織も涙を忘れてきょとんとしてしまった。
「わたしを、心配してくれてるからでしょう」
「そ、そんなの、」
 当たり前だよと言って、固く目を(つむ)った。弘は丁寧にありがとうと応えてポケットからハンカチを出すと、伊織の涙を軽く押さえるようにして(ぬぐ)う。
「久我先輩に、心配や不安の中にひとりぼっちでいていただきたくないの。しあわせでいてほしい。わたしの勝手なお願い事だけど、でも、」
 ――自己満足だ。
 わかっている。でも、もう決めた。
 す、と少し、深く呼吸した。
「好きだから」
 綾野の肩が痙攣(けいれん)のように揺れた。
 次子は携帯用の袋状の灰皿に煙草を押し込む。
 鷹羽は何も言えない。
 弘が口にした「好き」というただ一言が、鷹羽の中で反響する。過去に一度聞いているのだ。けれどこんなふうには響かなかった。
「恋、なの?」
 伊織が喰い下がる。必死だ。当然だろう。鷹羽だってそうしたい。綾野は()(ぱた)いてでも止めたい気持ちでいるし、表情を動かしていない次子だってそう考えているに違いなかった。
「わからない。恋だと思ったことはない」
「それでいいの? 後悔しない? ――恋って、大事な……プロセスじゃないの……?」
 ――伊織にとって。
 それはとても大切だ。
 恋ははじまりだと思う。
 でも弘にはそれがない。
 隣から微かな声が聞こえてきて、鷹羽はそっとハンカチを差し出した。弘以外の女の子に躊躇(ためら)わずにそうできても、今は不思議でもなんでもない。
 綾野は素直に受け取って、目元を強く押さえた。
 示し合わせたわけではないのに、同じくして伊織も次子からハンカチを渡されていた。次子の貸し方は鷹羽のそれよりもずっとぶっきらぼうだったけれど、長く親しんできた空気だったから、伊織は安心できた。
「――弘君」
「はい」
 ――ほんとうに、いつもと同じ。丁寧な応答だ。
 視線が彼女のものとぶつかって、鷹羽は何をも(くつがえ)せないことをやっと認めた。次子が気づいていたことに気づき、伊織も綾野もとうにわかってしまっている。だから泣いているのだ。
 彼女は揺るがない。
「八代を(けな)したいわけじゃない。信じて」
「うん」
 言うと、思った以上に胸は痛んだ。
「八代は、弘君を殴ったよ」
「うん」
「それでも? それでも八代を……生涯の、……相手――に、選ぶ?」
「はい」
 ――駄目だ。
 いささかも迷っていない。
 零れそうに大きな瞳、そこに宿っている色を、鷹羽はよく知っている。
 次子も伊織も綾野も。
 皆その色に救われてきた。
 純然(じゅんぜん)たる信頼の色。いっそ恐ろしいまでに疑わない透徹(とうてつ)妄信(もうしん)盲目(もうもく)も失った彼女の前では、(かげ)りでさえきらめく。
 そして、はじまりを恐れない嚆矢(こうし)の眼差し。
「心配してくれてありがとう」
 穏やかに弘は言った。ちいさな白い花のように微笑んで。
 鷹羽くんときっと同じなの、と言う。
「鷹羽くんがわたしに愛してるって言ってくれるみたいに、愛してるの。とても大切なひとなの。だからしあわせでいていただきたいと思うし、先輩が許してくださるなら、しあわせなところを見ていたいと思う」
 本気でわたしを傷つけようとお思いになったわけじゃないんだよ、と続けて、弘は(ほが)らかに笑った。
「久我先輩のお手は、お花が開くお手伝いをできる、とてもやさしいものだよ」
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