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「――……」
 続けられる言葉などなかった。
 (した)っていた人間に理不尽に打たれても恨まずに、やさしいのだと言う。(かば)っているのではない。そう思っている、弘にとってはそれだけのことなのだ。いつだって許すことを(いと)わず、受け入れることを躊躇わない。
 鷹羽だって、弘が述べるすべてを否定する気持ちは湧かなかった。
 あの硝子(がらす)()りの温室の中、弘に微笑みかけるときの八代の(はかな)い表情を、瞳を、声を、知っているから。
「……ひろむ……」
 消え入りそうな声だった。鷹羽の隣で震える声。一輪きりの解語(かいご)の花。
「弘……っ」
 絞り出すような綾野の声が、繰り返して同じ名前を呼ぶ。
「はい。なあに、綾ちゃん」
 伊織からやわらかく離れると、弘は綾野が身を硬くして座っている前まで行き、屈み込んで下から覗いた。きっと、幼い子どもをあやすような甘い笑みを浮かべているのだろうと鷹羽は思う。
 長い黒髪に視線を遮断された綾野の表情ははっきりとはわからない。鷹羽は彼女が泣いているのをはじめて見たのだ。どんな表情なのか、想像もできなかった。
 貸したハンカチは間に合わないほど濡れていて、涙がそんなにもあることに驚く。
 そういえば弘もそうだ。鷹羽を想って泣いてくれるときの弘も、壊れてしまうのではないかと心配になってしまうくらいに泣く。伊織だって激しい。女の子はみんなこうなのだろうか。哀しいときに痛々しいまでに泣く。
 そう考えると次子があまりにも不器用で、多くを知って、遠くを見渡せるからこそ何も言えないのだろうかと思うとつらかった。
 言葉で訴えても届かない苦しみと、何も口にできない哀しみでは、一体どちらが重いのだろう。それらは等しく相手に伝わるのだろうか。それら涙の一滴は、それぞれ等しく相手に(くだ)るのか。
 綾野が、無心に泣く赤ん坊のような声で願った。
「抱き締めて……!」
 弘は僅かも動揺せずに静かに立ち上がると、綾野の頭を胸に抱き寄せた。
 大切な……弘はこうやって子どもを抱くのだろう。
 凛然(りんぜん)とした、綺麗な姿だ。
 誰も彼女を(おか)せない。
「好きなの……弘、あんたのことが好きなの。大事なの……!」
 抱かれたまま、拳を握った両手で顔を覆った綾野が泣きじゃくる。
「しあわせでいてほしいの。隣にいるのがあたしじゃなくてもいいから。だから、……だから、」
 あとが続かない。すすり泣きに変わってしまう。
 好きでいさせて、と言いたかった。
 自分でも驚くほど八代に対する嫉妬がない。それがかえって歯痒(はがゆ)かった。不安や戸惑いも胸の岸辺に大きく打ち寄せ、広がっていく。ひどく透明で信じられないくらい澄んだ冷たい水だ。揺れる水面(みなも)(まぶ)しい蒼の。
 これはきっと、清和井(せがい)の波紋だ。
 知らない間に、(そば)にいる間に、――想いを小箱にしまってしまったせいで、弘への想いの姿が変わってしまったのだろうか。そんなの嫌だ。背信行為に思えた。自分自身と、綾野の中の弘に対して。
「わたしにとっても、綾ちゃんは大事なひと。――かなしくさせて、ごめんね」
 弘の胸に抱かれたまま、綾野は弱々しく首を横に振った。
 ――痛いの。
 哀しいのではなく。
 悲哀よりずっとつらいのに、悲嘆の(はたて)にまだ遠い。もう落ちてしまうしかないと確信するほど迫ったこともあったのに。
 綾野はまだ、何も失っていないのだ。これからも恐らく失くさないだろう。小箱ごと捨ててしまわない限り、それはずっと綾野の中にある。そして、失くす必要がないとわかった分だけ、遠ざかった涯が鮮やかに見えた。鮮明な遠景にどんなに手を伸ばしても届かないのは、弘が抱き締めてくれているからだ。
 我慢できなくなった子どもみたいに、伊織が弘の背に抱きつきにいった。とん、とぶつかるようにして、肩口に顔を埋めて震えている。腹部に回されぎゅっとしがみついている彼女の手に、弘は自身の手を添えて伊織の名前を呼んだ。ややあって面を上げた伊織に、微かに寂しく微笑した。
 ――わたしの大事なひと。かなしくさせて、ごめんね。
 その様を見ていて。
 視線を転じると、次子が俯いていた。眼を伏せていたのではない。彼女のそんな姿の取り方をはじめて見た。そして、彼女の目に淡い涙が広がって今にも零れそうになっているのを認めた瞬間、何故だか鷹羽が堪えていたものが(せき)を切って(あふ)()した。
 長く()(とど)められていた感情、想いの丈、――叶わないものへの願い。
「……弘、君、」
 鷹羽の声を聞いたからか否か、綾野が弘から離れた。震えながらでも、彼女は自分から身体を引いた。
 伊織は顔を真っ赤にして泣きながら、今度は次子に抱きつきにいく。次子はそんな伊織の背を一度だけ、ぽんと叩くようにして()でた。
 鷹羽が呼んで手を伸ばすと、すぐに指先が触れ合った。弘はいつものように「はい」と返事をしながら歩いてきてくれる。鷹羽は待たずに椅子から立って、両手で彼女の手を握った。
 小さくて、やわらかくて、シェアバターのようなあたたかみのある白い肌。
 触れたことがある。
 涙の思い出だけれど、そのときも弘はやわらかくあたたかかった。砕けてしまうのではないかと怯えて、抱き締めてくれたことに安堵(あんど)した。
 変わらない温度だった。
 もう、同じ言葉しか出てこない。
「君を愛してる」
 何度言っても足りなかった。他に何もない。鷹羽にとっての、弘に対する最上の言葉。敬意と信頼と親愛と。
 ――恋に、……酷似したものと。
「うん」
 いつだって飽かず受け止めてくれる弘のやさしさが、余計に鷹羽の胸を痛ませる。
「好きなんだ。弘君。君だけなんだ」
 勢い込んで言うまま涙が浮いてくる。握り締めた小さな手に額をつけるようにして下を向いた。あまりにも苦しくて、保っていられなかった。
 どうしてだろう、思い通りになってくれない。これほど弘だけと思っているのに、これ以上に出逢うことなどないとわかっているのに、自分自身が思い通りにならない。
「君しかいないのに。――愛してる、のに……っ」
 ――どうして恋じゃないんだろう。
 手を握って、頬に小鳥の羽根が触れ合うようなキスをして、額を合わせるだけで充分だなんて。たったそれだけで溢れるほど幸福だなんて、身を切られる。
「……どうして……っ」
 ――こんな思いをするくらいなら、(みにく)い欲望を抱えて叶わない方がずっといい。
「……僕は……君を抱けない……!」
 止められない涙が鷹羽の手を濡らし、弘の手に広がった。弘の心も身体もすべてを無視した、身勝手で独善的(どくぜんてき)な物言いだという自覚はあった。それでも言った。言わずにいられなかった。
 つらいのだ。弘への想いが叶わないのがつらいのではない。叶わなくていいのがひたすらつらく、苦しい。寒さに凍りついた肌にひびが入り、微かな音を立てながら細かく砕けて()がれ()ちていく。
 つらいのではなく痛いのかもしれなかった。かじかんで、もう感覚がないのかもしれなかった。
 温度があるのは涙だけだ。
「大丈夫」
 驚かせてしまわないようにゆっくりと、弘は鷹羽の背中に腕を回した。彼が自身に触れるとき、いつも細心の注意を払って大切にしてくれているのを知っているから、弘もそうして返した。鷹羽が抱き返してくれる。あまりにも(かな)しくて、ぎゅう、と抱き締めた。精一杯の愛情と信頼を込めて。
「わたしが抱いてあげる」
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