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 齟齬(そご)などなんの問題にもならなかった。必要なのは、今この一瞬だけで構わないから、ふたりの身体に隙間がないことだった。
 それ以外に抱き合える方法はふたりにはなく、叶えられる恋は最初から存在していなかった。手を繋げる、たったそれだけで満ち足りることのできる想いだったから。
 綾野も伊織も、鷹羽と弘の遠さ、自分たちと鷹羽の遠さをその行為を見て知った。

 わたしたちは誰も、弘のものになることができない。




 和室に布団を敷きつめて、完全な雑魚寝(ざこね)状態だった。誰も――当事者たちは勿論、突然押しかけられたにも関わらず、弘の両親も何も言わずに静かな笑顔で迎えてくれた。
 みんなで寝ることになんの抵抗も感じなかった。重要なのは弘と彼女に対する想いだけで、性別はまったく意味をなさない無用の長物だった。
 泣き疲れたらしい綾野と伊織は、向き合って手を繋いで眠っていた。綾野の真っ直ぐな黒髪が、伊織の緩く波打つブルネットの髪が僅かに広がって、なんだか星座が空から零れ落ちてきたみたいな光景だった。
 鷹羽は彼女たちと対角に位置する隅っこで、壁に背をつけて眠っていた。彼は何故だか昔から身体の一部を壁にくっつけて眠るのだ。
 (ふすま)を開けた先の部屋にひとり足りなかったから、弘は少し寂しいような気持ちで、少し哀しいような気持ちで、――少しだけ笑ってしまった。
 なるべく音を立てないように気をつけながら、障子を開き、窓を開ける。終始無言を通したたったひとりは、縁側の柱に寄りかかって立っていた。
「次ちゃん」
 背中に呼びかけたがふり向かない。これはいつものことだ。
 違うのは、返事もしてくれないところだ。
 空を見ているらしい次子の横にそっと並ぶ。
「まだ寒いから。風邪ひくよ」
 薄手の毛布を差し出すと、おう、と小さく礼を言って受け取ってくれた。次子がそれを羽織り、(くる)まるのを確認してから、フードのついたポンチョ型のブランケットを身につけた弘も空を見上げる。
 夜の静寂(しじま)が鼓膜を突く。耳鳴りがするようだ。星座の位置が大きく変わった。
 季節が変わるのだ。
 あと何日もしないうちに、甘い大気が抱えきれないほどの花を(たずさ)えた季節を連れてくる。
「お前はほんと疑わねえよなあ……」
「……一度疑って、信じたものだから」
 突拍子(とっぴょうし)もなく放った言葉にも、弘は的確に応じる。小憎らしい。
「だから、梃子(てこ)でも動かないんだよな」
「うん」
「実はいちばん性質(たち)が悪いよな。厄介(やっかい)だ」
 弘ははにかむようにくすりと笑った。
「ごめんね」
 笑みを残したまま言って、弘は次子の毛布を(つか)む。引き寄せるようにして背伸びをし、冷えている彼女の(ほほ)にくちづけた。
「いつもありがとう。心配ばっかりかけてるね」
「それはいい。あたしが勝手にしてるだけだ」
 軽く溜息をつきながら身体の向きを変えた。向かい合った弘に、ポンチョのフードを被せてやる。春が近いとはいえ、夜はやはり冷え込む。
「ありが」
 言いかけた弘の後頭部をやや乱暴に引き寄せた。弘は驚く様子もなく、おとなしく次子の片腕に抱かれて収まる。
「……不幸になるな」
 ――あいつらの涙を少しでも重いと思えたなら。頼むから、それだけは。他はもう何もいらないから、欲張らないから、それだけは。
 言葉は声にならなかった。唇に触れることすらせずに次子の心に留まっている。言えたらどんなに楽だろう。
「……はい」
 弘は微かに笑って(うなず)く。
「大丈夫だよ。わたしは幸福を疑わない」
 あんなに泣いてくれるひとがいるのに不幸なわけないよ、と言うと、弘は少し泣きたくなった。
 八代の胸を押し返したときと似ている。拒絶はしなかったけれど、突き放しはした。あのとき確かに彼を傷つけた右手。
「これから先にどんなかたちで別れて、もう二度と会えなくなっても、――自分のことを想って泣いてくれたひとがいたんだって思えば、それだけで生きていける」
「……そうだな」
 (つぶや)くように応えて、次子は弘を解放した。弘の想いや生き方は次子を救ってくれるけれど、理解することも真似をすることもできない。言語として、情報として取り込めるだけだ。
 それが寂しい。
 さっきのキスだって、あれは弘からの訣別(けつべつ)に決まっていた。言葉の上では次子が先に弘を引き離したけれど、あの頃彼女はまだまどろみから抜け切れていなかった。(まぶた)を開いた瞬間だったとも言える。次子の言葉だけを、無自覚だった部分の自分自身を(とら)えるのに必死で、手一杯だった。
 それが落ち着いて、はっきりと目が()めて――そうしたら、言葉がなかったのだろう。それくらい長く言葉を必要とせずに、次子と弘は一緒にいた。
 こんなときだけ、弘はひどく残酷だ。次子はもう、弘を守る真似さえできない。
 これまで、(はた)から見れば弘は次子に守られているように見えただろう。弘はあまりにも永い眠りの中にいて、誰の目にも彼女には庇護者が必要だと思えただろう。
 そしてその役割は、常に次子が負っていた。だがそれは幸福な錯覚であり、誤解だ。
 次子は一度だけ、弘の前で泣いたことがある。彼女の(おろ)かな純粋に触れて、涙が零れた。真似事でも弘を守りたいと思ったのはそのときだ。いつか真似事ではなく、本当にそうできるようになりたいとも思った。
 そう夢に想いながら、心のどこかでそんな日は永遠に来ないこともわかっていた。
 夢の輪郭(りんかく)がぼやけて消えていく。
 あのキスより近くなってはいけないのだと、はっきり告げられてしまった。鷹羽にも綾野にも伊織にもしなかったキスを次子だけにしたのは、次子が目測を見誤ってしまわないようにするためだ。
 キスをもらった瞬間、次子は、助かったと思ってしまったのだ。
 次子は自分が男だったらと思うことがある。綾野と同じ想いではないけれど、鷹羽に刹那(せつな)の嫉妬をすることがある。その嫉妬は見失いそうなほど小さく透明で、爪で触れることもできないけれど、存在することに変わりはない。(まばた)きの間に、八代を(うらや)むことさえある。
 弘に仔細(しさい)はわからないだろう。そんな心の機微など、(あずか)り知らないことだろう。でも彼女は、次子に訣別のためのキスが真実必要だと気づいたのだ。
 ――触れていても、繋がりはしない距離。繋がることがあっても、触れられない距離。
 鈍感なくせに、卑怯なほど鋭い。相手が傷つくとわかっていても、必要なら決然と、毅然(きぜん)とした態度を崩すことなくやさしく距離を取る。弘は既に、傷つく覚悟も傷つける覚悟もできている。
 ――本当は、次子が囲って守ってやる必要なんかないのだ。実はそれはもうずっと前からわかっていたことであり、知っていたことで、猶予(ゆうよ)は永遠ではないという当然の決まりが履行(りこう)されたというだけのことだった。
 ――そう思えば。
 ずいぶんと長い間、ふたりでいられたと思う。
「……わたし、自分勝手なことばっかり言った」
「言うだけじゃないよな」
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