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「うん。これから勝手なことばっかりする」
 弘の声は静かだ。雨上がりの水たまり、ひらりと落ちた花のひとひらが起こす波紋ほどの揺れもない。それでも、次子は彼女の涙の気配を感じ取れる。
 乱反射する(しずく)。透きとおる(まつげ)
「……安心しろ。どいつもこいつも自分勝手で、自己満足なことしか言ってないしやってない。それをどれだけ人格無視にならないようにするのかが人間関係のひとつだ」
「うん」
 ――……泣かないのか。もう。
 弘から渡された毛布の中、次子は緩く手を握る。
 記憶に(ひらめ)く遠い晴れた日。光輝(こうき)の青空と、清廉(せいれん)な大気。(さや)かな瞳。あどけない頬のやわらかさ、小さな手も、すべて。
 ――あたしが笑うのは、お前が笑うからだよ。
 次子は静かに瞑目(めいもく)した。冷たい空気を身体の底まで吸い込んで、ゆっくり吐き出すと同時に目を開ける。
 (あい)(こん)を滲ませた夜空に散らばる、空気の結晶でできた砂粒みたいな白い星。
 ――大丈夫だ。何も変わらない。
「もう寝ろ、馬鹿な赤ずきん」
 結構な力を入れて指で額を弾いてやると、弘は、はぅ、と後ろによろけた。
「どうして馬鹿がつくの? 赤ずき……」
 自分の頭を触って感触を確かめている。赤いブランケットだ。赤いフード。絵本の中の彼女の姿。
 思い至ったらしいが、納得はいかなかったらしい。弘はむうとふくれた。
「赤ずきんちゃんって、次ちゃんが言う馬鹿かなあ?」
 次子は意地悪く笑った。どこか明るい気分だった。
「馬鹿だろ。少なくともお前は。自分から狼に喰われにいこうとしてるんだから」
「久我先輩はおやさしい方だよ」
「やさしいふりするのも狼の仕事のうちなんだよ、暗黙の了解事項だろ」
「ほんとうにおやさしいんだってば」
 唇を(とが)らせて不服そうな表情で言うので、おかしくなってしまった次子は笑いながらほっぺたを(つね)ってやった。
「これはもう間違いなく喰われるな。……まあ、他人にどうであれお前にやさしいんならそれでいいさ」
 後半は、心から出た言葉だった。
「次ちゃんにはやさしくないの?」
「あたしが猟師だったら問答無用で()ってるな」
 おおよく伸びる(もち)のようだ、とほっぺたをむにむに引っ張り回しながら次子は思う。
 無邪気で無防備な赤ずきん。
 でも、この目の前の赤ずきんは道を踏み外したりしないし、道草を喰うこともしない。
 自分の庭で育てた花を束にして綺麗なりぼんを巻いて、大きなケーキを焼いて、自分を待つひとの家へ迷うことなく向かう。途中、腹をすかせた狼に出遭ったら、たとえどんなに空腹でも、そんなことは億尾(おくび)にも出さないで自分の弁当を全部差し出すのだろう。
 なんて馬鹿な赤ずきん。
 だからお前は襲われないままでいられるのだ。
「――まあ、そうだな」
 ぽよん、とふくふくした頬から指を放して苦笑する。
 この役回りも板についた。
「猟師だからな。喰われそうになってたら、一応助けてやるよ」
 次子が言うと、弘は何事か思案するように首を傾げて、それから、さっきまで(つま)まれていた頬を紅潮(こうちょう)させてくすぐったそうに笑った。ありがとう、と言って。
 ――ああ、また、すぐにそんな顔をする。
 なんて馬鹿な――
「あぅっ」
 再度額を弾くと、変な声を上げて今回もまともに喰らってくれた。相変わらずどんくさい。
「――もう。いいから、いい加減寝ろ」
 やましいことなど何もないのに、何故か恥ずかしくなってくる。
「次ちゃんは?」
「もう少し。さすがに煙草は吸わねえよ」
「うん……風邪ひかないように気をつけてね」
 素直に頷いて、弘はからからとサッシを開けた。
「あ」
「ん?」
 室内に片足を入れた弘がやわくふり向く。それから微笑んで、星屑(ほしくず)が零れるような声で(ささや)いた。
「おやすみなさい。やさしい猟師さん」
「――……」
 ――そんなふうに言われたら。
「……ああ」
 返答なんて、他にない。
「おやすみ、かわいい赤ずきん」






 (not) end.
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